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伯爵の釵
はくしゃくのかんざし
作品ID48411
著者泉 鏡花
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本幻想文学集成1 泉鏡花」 国書刊行会
1991(平成3)年3月25日
初出「婦女界」1920(大正9)年1月
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2009-05-31 / 2014-09-21
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 此のもの語の起つた土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央に城の天守尚ほ高く聳え、森黒く、濠蒼く、国境の山岳は重畳として、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、甍の浪の町を抱いた、北陸の都である。
 一年、激しい旱魃のあつた真夏の事。
 ……と言ふと忽ち、天に可恐しき入道雲湧き、地に水論の修羅の巷の流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰ではない。
 恁る折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、此の土地に七日間の興行して、全市の湧くが如き人気を博した。
 極暑の、旱と言ふのに、たとひ如何なる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥に満々と水を湛へ、蝋燭に灯を点じたのを其の中に立てて目塗をすると、壁を透して煙が裡へ漲つても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。
 こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、恰も此の轍だ、と称へて可い。雲は焚け、草は萎み、水は涸れ、人は喘ぐ時、一座の劇は宛然褥熱に対する氷の如く、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎らして剰余あつた。
 膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、挙つて座中の明星と称へられた村井紫玉が、
「まあ……前刻の、あの、小さな児は?」
 公園の茶店に、一人静に憩ひながら、緋塩瀬の煙管筒の結目を解掛けつゝ、偶と思つた。……
 髷も女優巻でなく、故とつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒した意気造。形容に合せて、煙草入も、好みで持つた気組の婀娜。
 で、見た処は芸妓の内証歩行と云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても可い風采。
 また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演劇は昨日楽に成つて、座の中には、直ぐに次興行の隣国へ、早く先乗をしたのが多い。が、地方としては、此まで経歴つた其処彼処より、観光に価値する名所が夥い、と聞いて、中二日ばかりの休暇を、紫玉は此の土地に居残つた。そして、旅宿に二人附添つた、玉野、玉江と云ふ女弟子も連れないで、一人で密と、……日盛も恁うした身には苦にならず、町中を見つゝ漫に来た。
 惟ふに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であらう。落人の其ならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都度、ハツと隠れ忍んで、微笑み/\通ると思へ。
 深張の涼傘の影ながら、尚ほ面影は透き、色香は仄めく……心地すれば、誰憚るともなく自然から俯目に俯向く。謙譲の褄はづれは、倨傲の襟より品を備へて、尋常な姿容は調つて、焼地に焦りつく影も、水で描いたやうに涼しくも清爽であつた。
 僅少に畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも…

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