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淡雪
あわゆき
作品ID48439
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者伊藤時也
公開 / 更新2013-04-14 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 潔が亡くなってから彼是一年になる。露子は彼から感染されて居た病気がこの頃可也進んで行った。早くから澄川病院に入院する様に父母を始めみんな勧めたが、潔のもと居た病院ではあるし、露子は気が進まなかった。そんな風に病勢をずるずる引伸して行くうちに、寒に入って凍てつくやうな日々が続いた。
 ある日、露子は到頭喀血した。血の色を視ると、急に彼女は周章て出した。居ても立っても居られなく、母に縋りついて、さめざめと泣いた。その日、父は早速郊外の松田病院へ出掛けて入院の交渉をして来た。父は珍しく菓子折を提げて帰った。
「なあに、お前は潔とは違って、晴やかな人間だ。陽気な人間なら、この病気は病気の方から今に降参して来るよ。」と父は云ったが、さう云ひながらも、彼女が菓子を欲しがらうともしない有様を見ると、一寸口に出せない別の感じを抱くのであった。

 夜になってから露子は睡つかれなかった。今日一日の経過が夢のやうに頭の裡に浮んで来る。これから先の不安と云っては、只住み慣れない病室に行かねばならぬと云ふこと位であった。それも潔の室で大体想像のつくことであった。だのに、どうも彼女はこれから大きな船に乗って出かけて行くやうな気持がした。ほんとに、船の汽笛がポーと鳴る音を耳にするやうであった。波がキラキラ輝いてゐる夏の午後、彼女はうっとりと甲板の上に水着の儘寝転んでゐる、と船と自分とが一心同体になって水の上を進んで行く。――かうした気持が暫くしてゐたかと思へば、また今朝ほど吐いた血の色が目に映った。紅い血の塊りが波の上に浮いて行く。彼女は何時の間にか、自分が吐いた血の色に見惚れてゐるのである。「これはをかしい」と彼女は呟いた。あれ程彼女を驚かせた血塊が、今は美しいと感じられるとはどうしたものだらう。何だか彼女は少女の頃の感傷にかへって居た。私はどうせ波の上に漾ふ一片の花瓣のやうなものです、さう小声で私るやうに[#「私るやうに」はママ]胸のなかで囁くと、思はず閉ぢてゐた目に涙が滲んだ。
 朝になる頃、彼女は変な夢をみた。潔が彼女の手を執って、唇に押しあてるので、彼女は片方の指で自分の唇を示すと、潔は首を振る。「何故?」と尋ねると、「今にわかります。」と潔の声は慄へてゐる。「何故? 何故?」と彼女は潔に甘えかかって、到頭彼の首に手を廻す、さうして接吻を了ってしまふと、やはり何でもなかったので彼女は晴やかに笑ひこける、潔も淋しさうに笑ひ出す。
 夢が覚めてから少許はただ爽やかな気持で居たが、ふと彼女はこの夢が気になり出した、さうして終にはこの夢が恐しくなって来た。
 露子が松田病院に入院してから一ヶ月は経過した。彼女はすっかり瘠せ衰へて、病人らしくなった顔に、淋しい笑みを浮べるのであった。入院して却って悪くなるとは、と見舞に来る人は首を捩った。医者もこの問ひに対しては答へやうがなかった。彼…

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