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奇蹟
きせき
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者伊藤時也
公開 / 更新2013-04-17 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 二年のB組の教室は、今しーんとして不思議な感激が満ちたまま、あっちでもこっちでも啜泣く声がきこえた。
「僕は泥水のやうに濁った腐敗分子でした。」と教壇の上で一人が釘づけになって、次を云はうとしてゐた。その時小使が頓馬な顔つきでドアを開けて、空の薬鑵を持って帰らうとしかけたが、
「それは後にしてくれ給へ。」と主任教師が[#挿絵]すると、小使はけげんな顔つきで教室を名残惜しさうに素速く見流して消えて行った。しかし誰もこのことで注意を掻き乱されたものはなかった。一同は今突然クラスを襲った懺悔の感覚で酔ってゐた。
「僕はただ泣いて皆さんにお詑びします。」と、既に両手で眼を押へてゐた一人が、ぎこちないお叩頭とともに教壇を降りると、自分の席に着くが早いか、机にしがみついてそこでまた啜泣いた。さうすると歔欷く声があちらでもこちらでも一層烈しくなった。そしてその声は、――さあ今度は君の番だ、と誰かの良心に訴へてゐるやうであった。間もなく一人が決心したやうに席を立つと、教壇に上った。ところが、どうした機みか、教壇がドカンと大きな響を立て、その肥満した男はよろめきさうになった。だが、彼は歯を喰ひ締って、感激の一瞬間を切りひらいた。
「僕は……」と云ったまま、彼は奇妙な声を放って泣き出したのであるが、その声はまるで笑ってゐるやうに響いた。だが、一同はここでまた深刻な気分に締めつけられた。ああ、哭いてゐるものを、をかしいと考へてはならない――さうした厳しい命令のため、そこの空気は一そう緊張してしまった。そして教壇の男は結局泣きながら席に戻った。さて、その次にも誰か出るかも知れなかった。しかし大概もう懺悔を済ました者ばかりで、その始めに自分等のクラスの堕落を嘆じ、腐敗分子の攻撃をした連中までが、遂には皆に倣って懺悔をする始末だった。そこで主任教師はとにかく教壇へ上って、皆の興奮を宥めるやうに適宜な結論を与へた。
「まあ諸君、そこでお茶でも飲まうではないか。」
 さう云へば、今迄各自のテーブルには菓子とお茶が配られてあったのだが、誰も手を着けてゐなかった。皆は冷えてしまったお茶を啜り、ポリポリと煎餅を噛り出した。窓の外に見えるアカシアの梢の方に紫色の雲が渦巻いてゐたが、ピカリと大きな稲妻が閃いた。あたりは次第に薄暗くなって来た。風がカーテンを翻し大粒の雨が瓦を打った。
「ぢゃあ、あまり遅くならないうちに、このクラス会はこれで終りとしよう。」と教師は穏かに云った。そして一同は洗い清められたやうな顔つきで席を立ったが、もう次の瞬間には、ごく普通の笑ひ声や囁きがあちこちで起ってゐた。



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