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真夏日の散歩
まなつびのさんぽ
作品ID48476
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者伊藤時也
公開 / 更新2013-05-01 / 2014-09-16
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 その男は顔が仮面のやうになってしまって、毀れものを運ぶやうにおづおづと身体を動かしてゐた。八月の熱と光が街を包んで到る処の空間が軽い脳貧血を呈してゐた。
 鋏の柄に着いてゐる米粒ほどの透明な石を、明るい光線にあてて眺めると、石の底に雪の峰や曠野が浮んで来る、恐らく鋏の微かな錆の斑点が、そんな錯覚を齎すのかも知れないが、その空間の小さな夢は、視るものの膚を冷りとさせ、やがてさう云ふ運命が何時かは君の身の上にも実現するぞと脅しつけるのだった。――今、その男は鋏の柄の小さな石になったやうだった。その底に錆びついた斑点が纔かに残されてゐる、それが記憶の斑点だとは彼は考へる力もない。そして彼は見えない一つの糸に牽かれて、死にかかった身体を無理にひきずって歩いてゐた。
 その男の顔を玄関に迎へた私は愕いた。しかも、その男は私を誘って散歩しようと云ふのであった。午後三時の衢の一部分を二人はのろのろと歩いた。私が少しでも早く歩くと、その男は不機嫌な顔をした。のろのろと二人は葬式のやうに歩いて、それが夜ならば適度の落着きと或る気分を与へる商店街へ来た。今や私には何のためにこんな時刻にこんな場所へ来たのか解らなくなった。が、もはやその男の機嫌を損じまいと努めるばかりであった。その男は何か云ひ度いこと、訴へたいことを持った儘、重く口を噤んでゐた。やがて二人が喫茶店に落着いて、私が煙草を取出すと、その男は、「一本くれ給へ。」と云って掌を差出した。そして、たった一本の煙草をさも重たげに指に挟むと、非常な努力を以て、それを吸はうとするのだった。



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