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はえ
作品ID48479
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者伊藤時也
公開 / 更新2013-04-26 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 秋も大分深くなって、窓から見える芋畑もすっかり葉が繁った。田中氏は窓際の机に凭って朝食後の煙草を燻して、膝の上に新聞を展げてゐた。さうしてゐると、まだ以前の習慣が何処かに残ってゐるやうで、出勤前のそはそはした気持になるのだった。
 今、湯殿では妻が洗濯してゐる音が聞える、彼は不意とその方へ声が掛けたくなる衝動を抑へて、静かにぢっと耳を澄ました。すると気の所為か、妻は時々何か思案しながら洗濯してゐるやうに思へる。妻が何を考へてゐるのか、田中氏にはぼんやり解るやうな気もした。さう云へば二十と何年も一緒に暮してゐながら、今度のことがあって始めて妻の気持にも彼は段々関心を持つやうにされたのだった。二三日前、妻は彼がまだ寝てゐる枕頭に来て、ひそひそ泣いて、今更のやうに子供が欲しいと云ひ出した。やはり住み馴れた都会を離れて田舎の静かな処へ来ると、さう云ふ気持もするのかも知れない。彼ももう一度生れ変ってみたい念願が時々生じるのだが、社会に対してすっかり見切りをつけてしまった筈なのに、どうしてそんな馬鹿な野心が湧くのか不思議でもあった。しかし隠居してしまふにはまだ少し若かったし、何もしないでゐると却って早く死が追って来さうな妄想が湧くので、静かな暮しのなかにも憔慮が絶えなかった。
 田中氏の念想は何時の間にか飛躍して、不図さっき便所の隅で視た小さな情景を想ひ出した。蜘蛛の巣の糸に蟋蟀が引掛って宙にぶらさがったまま、四肢をピリピリ動かしてゐるのだった。彼はそれを眺めながら蜘蛛が悪いのか、蟋蟀が悪いのか結局判断出来なかったのでその儘にして置いたのだが、彼の運命もやや蟋蟀に似てゐるやうに思へた。だが、憤ったところでどうにもなりさうにはなかった。彼は近頃不図観相術の本を買って読んでみると、彼の顔にはもともとさうした不吉の相があったのに気づいた。してみると、あの事件も偶然ではなかったのか、辞職しよう、辞職しようと考へてゐるうちに、あの涜職事件は突発したのだった。毎日警察へ呼び出されたり、新聞に書き立てられたりして、さんざ世間の疑惑と冷笑を買った揚句、やっと無関係なことが証明された時には、すっかり彼の気持は変ってゐた。身の潔白が証明された以上、何故職に踏み留まらなかったのかと、彼の辞職を批難する友もあったが、さう云ふ友の意気は羨しいとしても、彼の眼には浮世のすべてが陰惨な翳に満たされてゐるやうに意へ出した。人の一生は悪夢か、と彼は時々さう口吟んだが、悪夢だと悟りきれない夢もまだ少しは持ってゐた。どうも此頃は殆ど毎日雨が降るので、余り運動も出来ない所為か、消化不良で夜毎怪しげな夢をみるのだった。その夢は決ったやうにあの事件と関係のあるものだった。忘れよう、忘れようとしてもあの時の記憶は空気のなかに溶け込んでゐて、呼吸をする度に現れて来た。今朝もやはり夢をみた筈だった、が、田中氏は今更夢…

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