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気質と文章
きしつとぶんしょう
作品ID4859
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本現代文章講座 ―原理篇―」 厚生閣
1934(昭和9)年8月11日
入力者小林徹
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-12-20 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        1

「文は人なり。」
 これは高山樗牛の有名な詞である。が、今は古めかしいこの詞も結局は永遠の眞理である。言ひ換へると、文章は人格の再現なりといふ事になるが、これをもつと狹い意味に文章は氣質の再現なりとも言へると思ふ。
 實際、文章ほど複雜多岐多樣の相貌形態を持つてゐるものはないが、これは作者なり筆者なりの人格或は氣質が自然に現れ出でるからに外ならない。新聞記事とか科學者の研究論文などは適確な事實の報道乃至は冷靜な眞理の報告のためであつて、文章としては全然筆者の主觀の介在すべき性質のものではない筈であるが、なほ且つそこには筆者獨自のいろいろな調子や色合が現れ出る。で、繪畫や筆蹟などにはしばしば殆ど眞に近い贋物があり得るが、文章の贋物などは絶對に不可能と言つていい。まだ年若な文學志望の人達の中に武者小路實篤を眞似るとか、久保田万太郎を模倣するとかいふのがよくあるが、完全に似せ得るものでもないし、またそんな文章に、言ふならば、作者或は筆者の人格なり氣質なりの現れ出ない贋造の文章に文章としての生命や面白味は全然ないのである。で、一人の人間の文章の達成とは、やや極端に言へば、その人なりの個性や氣質を十分に生き生きと生かし、織りなす文章を作り上げるといふ事に外ならない。

        2

 氣質とは何か? 殆ど文學的な常用語になつてゐる temperament といふ英語はこれに當るのだが、その人の精神的素質、もう少し碎いて言へば、その人の心の持前といふやうな事になる。どうもかういふ詞の定義はなかなかむつかしいが、先天的なものでもあり、また同時に後天的なものでもある人間の素質、さうかと言つて、その人に嚴然と動きなく備はるといふほどでもなく、時には氣分に依つて刹那的に幾分の變化動搖を見せぬ事もないのだが、とにかくその人の根柢に横はつて自然に流露してくる心の姿とでも言つたらいいであらうか?
「何と言つても氣質は爭はれない。」
 さういふ詞がしばしば或る人間の言行に對して言はれる。これは何かの場合如何にも自然にふつと現れ出るその人本來の姿に對して放つ、幾分詠歎的な意味を含めた詞であるが、どう隱し、どう佯り、どう飾つてゐても人の持前といふものは、いつかどこかで何等かの形で自然に流露するものだといふ事だ。そして、これはなた同樣に文章に對してもそのまま言へる詞だ。
 例へば如何に文章を美しく綺麗に書かうとしても、その人の氣質に不純な濁つたものがありとすれば、到底筆先だけで胡麻化せるものではない。よしや凡愚を感心させ得るとも、識者は忽ちそれを見拔くであらう。また前にも言つたやうに誰を模し彼を眞似るといふ事がたとへ可能であつても、その人の持前がその誰彼に至つてゐない限り結局ボロを曝露するばかりだ。實際、私達はエセ泉鏡花やエセ正宗白鳥などの亞流に幾度顰蹙させられ…

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