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くづれた土手
くずれたどて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十二巻」 臨川書店
1995(平成7)年2月10日
初出「若草」1925(大正14)年12月
入力者tatsuki
校正者津村田悟
公開 / 更新2017-09-09 / 2017-08-25
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 一夜すさまじく荒れた颱風の朝、Kはいつもよりも少し遅れて家を出た。雨はまだぽつぽつ落ちてゐたけれども、空にはところどころ青いのが見えて、強弩の末と言はぬばかりの風が割合に静かに大きな樹の梢の葉を吹いてゐた。しかし何処にも風雨の跡を留めないところはなかつた。家々の屋根の甍は剥がれ、垣は倒され、電車への路の新開町はすつかり洗はれて石が出てゐた。阪に添つたところには、切断された電線が長蛇のやうに塀から下に垂れ下つてゐた。
 Kは大学を出て、ついこの夏今の社に出たばかりであつた。また細君を持つてゐなかつた。かれは母と二人で暮した。水入らずの親一人子一人の暮しを。学校を卒業して社に勤めるやうになつても、五六年つゞけて来たのと少しも変らない静かな暮しを。学校に通ふのを社に変へたばかりの暮しを。かれはいつものやうに小さな川をわたつたり、林に添つたりして、通りの向うにある郊外の小さな電車の停留場の方へと足を運んだ。
 でも昨夜の風雨はさう大してひどい方ではなかつたらしく、通りへ出るところの角では、そこの主らしい男がその此方の小間物屋の爺と並んで立つて、『まア、このくらゐですんで結構でした。一時はもつとひどくなるかと思ひました……。もう大丈夫です……』などと言つて雲行の早い空を眺めてゐた。
 それからは新開町が続いた。顔を白く塗つて耳かくしにしてゐる女給の二三人もあるカフエーだの、肥つた爺のゐる薬屋だの、八百屋だの、蕎麦屋だの、鮨屋だのが混雑と……。そしてそこををりをり自動車が通り、荷車が通り、タンクがけたゝましい音を立てゝ通つた。



 レイルを越して、階段を上るやうになつてゐる停留場の下に来て、Kは仰向いて思はず立留つた。あたりには人が満ちてゐた。少くとも今までついぞ見たことがないほど人が一杯に溢れてゐた。[#挿絵]何うしたんだらう?[#挿絵]と思ひながら、しかも躊躇せずにKは上つて行つたが、忽ち一つの知つてゐる顔から挨拶された。それはこのずつと奥の方に住んでゐる農家の一人子息で、市内の高等科の学校に通つてゐる青年であつた。
『何うしたんです?』
『何でも故障が出来てるんださうです』
『あなたもうさつき来たんですか?』
『いや、今、来たばかり――』
 こんな風に言葉を交してゐる中にも、Kは知つてゐる顔を其処此処に発見した。冬にはいつも厚ぽつたい外套を着て古びた中折をかぶつてゐる丸の内辺の役所の属僚、肥つて脂ぎつた体格をして、銀の輪の嵌つてゐる太いステツキを持つた会社の支配人らしい男、痩せて鶴のやうな顔をしてゐる中老の教師らしい紳士、さうかと思ふと、毎朝麭町あたりの女学校に通ふ制服のセルの袴をつけた女学生――すべてさういふ人達は、この五六年の間に、Kがそこの角、かしこの角、林に添つた道の傍、新開町の方へと出て来る長い路の外れ、でなければ阪の上で、里川の橋の袂で、…

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