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茸の香
きのこのかおり
作品ID4895
著者薄田 泣菫
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆48 香」 作品社
1986(昭和61)年10月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2014-08-25 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 私は今上醍醐の山坊で、非時の饗応をうけてゐる。
 坊は谿間の崖に臨むで建てかけた新建で、崖の中程からによつきりと起きあがつて、欄干の前でぱつと両手を拡げたやうな楓の古木がある。こんもりとした其の枝を通して、段々下りの谿底に、蹲踞むだやうな寺の建物が見え、其の屋根を見渡しに、ずつと向うの山根に小ぽけな田舎家が零れたやうに散ばつてゐて、那様土地にも人が住むでゐるのかと思はしめる。
 吸物の蓋を取ると走りの松蕈で、芳ばしい匂がぷんと鼻に応へる。給持の役僧は『如何だ』といつた風に眼で笑つて、然して恁う言つた。
「折角の御越やさかい、山中捜しましたが唯一本ほか見附りまへなんので、甚い鈍な事とす」
 楓の枝に松潜りに似た小さな鳥が飛んで来て、そそくさと樹肌を喙いてゐたが、夫も飽いたといつた風に、ひよいと此方向に向き直つて、珍らしさうにきよろづきながら唖のやうに黙りこくつてゐる。
 茸を噛むと秋の香が齦に沁むやうな気持がする。味覚の発達した今の人の物を喰べるのは、其の持前の味以外に色を食べ香気を食べまた趣致を食べるので、早い談話が蔓茘枝を嗜くといふ人はあくどい其色をも食べるので。海鼠を好むといふ人は、俗離れのした其の趣をも食べるのである。香気にしてからが然うで、石花菜を食べるのは、海の匂を味はひ、香魚を食べるのは淡水の匂を味はふので、今恁うして茸を食べるのは、軈てまた山の匂を味はふのである。山も此頃のは、下湿りのした冷たい土の香である。
 這麼事を考へながら茸を味つてゐると、今日此頃ついぞ物を味ひしめるといふ程の余裕が無くなつてゐたのに気が付いた。唯既う口腹の慾を充たすといふのみで、甚麼物も皆同じ様に掻き込んでぐつと嚥み下すに過ぎなかつた。若し偶然して韲物の中に胡桃の殻でも交つて居らうなら、私は何の気もつかずに、夫をもつい噛み割つたかも知れぬ。私達の味覚は嗅覚だの聴覚だのと一緒に漸次と繊細に緻密になつて来たに相違ないが、其の一面にはお互の生活に殆ど緩り物を味ふといふ程の余裕が無くなつて、どうかすると刺戟性のもので、額安に、手取早く味覚の満足を購ふといつた風になり勝なので、感覚の敏さが段々と弛んで、終ひには痺れかゝつて来るのではあるまいか。然うすると私達も、いつかは茸のやうな這麼仄かな風味に舌鼓を打つ興味に感じなくなつて了ふかも知れぬ。
 吸物は吸ひ尽した。小僧は『お代りを』といつて、塗の剥げた盃をさしつけた。松潜りは既う楓の枝に居らぬ。十二番の岩間寺へ越す巡礼の者であらう、睡いやうな御咏歌の節が山越に響いて、それもつい聞えなくなつて了つた。



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