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私の考へてゐる事
わたしのかんがえていること
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十三巻」 臨川書店
1995(平成7)年3月10日
初出「文章倶楽部 第十一巻第二号」新潮社、1926(大正15)年2月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-05-13 / 2018-04-26
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 若い人達のためには、私は第一に勉強することを勧める。しかし勉強と言つても書くことばかりではない。読書すること、見学すること、論議すること、すべてそれを指して言つてゐるのである。若い頃にはいくらあせつても、実人生のことには容易に本当に触れ得るものではないのである。父母兄弟、叔父伯母、さういふものの中にその一部を発見するにはしても、十分にそれを理解することは出来ないものである。従つて余りに年若くて、実人生に触れるといふことは、決して好いことでも幸福なことでもない。むしろ早く触れたがために、却つてその発達が小さくなつて了ふやうな場合がよくある。『あまり早く世間に出たのがわるかつたのだ……。そのために、あの人は平凡になつて了つた……』かうした言葉を私はよく耳にする。
 私の考では、実人生に打突かるのは、成るたけ遅い方が好い。遅ければ遅いほど好いと言つても好いくらゐである。私は二十五六になつて初めて実際に目を向けたといふやうな青年を愛する。性の目覚が若い人達を無茶に実人生に駆つて行かせるやうな形を私はよく知つてゐるけれども、それはぢつと抑へてゐなければならないものである。若い人達には力強くそれを抑へるだけの義務もあれば勇気もあるといふことを私は知つてゐる。
 だから、若い人達は書物の中から実人生を学んで置く必要があるのである。それに依つて知るより他手段がないのである。それに、凡そ書物といふものには、何んな書物にも、科学書にも、哲学書にも、小説にも、戯曲にも、断片的な感想にも、皆な人生が書かれてあるのである。否、何んなつまらぬ本にも一つとして人生の書かれてないものはないと言つて好いのである。それは見やうによつて、そこから人生の一つしか持つて来ることの出来ないものもあらうし、五つ持つて来るものもあらうし、その人の読書眼の如何によつていろいろであらうけれども、兎に角書物の中には何んな書物でも一つ一つ人生が展開されてゐるのである。だから若い人達のためには、この書物に親しむといふことは非常に大切なことである。
 ところが此頃では、さういふ方面は閑却されて、頻りに文壇意識ばかりを振り廻してゐるやうである。それは文壇意識も大切でないことはない。現代の文壇と作家とに通ずることは最も必要である。しかし余りにそれにばかり没頭するといふことは、その精を耗らし魂を萎縮せしむるといふ上に於て非常に損である。そのために中途で筆を捨てなければならないやうな形になつた人達を私は沢山に知つてゐる。だから、をりをりはさういふ焦々した文壇意識から離れて、静かに外国文学でも研究するといふことが好箇の鎮静剤になるのである。
 此頃は大衆文芸などが栄えて、外国文学研究は、いくらかお留守になつたやうであるが、これなども決して好いことではない。江戸時代の文学(化、政度)は、殆ど研究に値ひするものはないと言つて好い…

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