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質屋の通帳
しちやのつうちょう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻18 質屋」 作品社
1992(平成4)年8月25日
入力者門田裕志
校正者大野晋
公開 / 更新2004-12-08 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 京都に住んでゐた頃、たしか花時の事だつたと思ひます。私が縁端でぼんやり日向ぼつこをしてゐると、女中が来客の名刺を取次いで来ました。名刺にはK――とありました。K氏は私には初めての客でしたが、友人H氏の弟子筋にあたる人で、その頃新進作家として一寸売出してゐました。
 K氏は座敷に入つて来ました。細面の色の白い、言葉数の至つて少さうな人でした。初対面の挨拶をしました後は、暫くは接穂がなささうに黙つてもじもじしてゐましたが、やがて言ひにくさうにこんなことを言ひました。
「初めて伺つて、失礼な事を申すやうですが、お宅には質屋の通帳がおありでせうか。」
「質屋の通帳?」私は自分の耳を疑ふやうに客の顔を見ました。
「は、質屋の通帳を。」K氏はぽつりぽつりと言葉を切るやうに言ひました。「お持ちでしたら一寸拝借したいと思ひまして。」
「何にお使ひになるんですか。」
 たつた一つしかない、それも誰にでも判り切つてゐる質屋の通帳の使ひ途をさも知らないもののやうに訊きました。
「実はこの羽織をまげて幾らか融通したいと思ひましてね。」
 K氏は著てゐる羽織に一寸眼を落しました。それは真新しい黒羽二重で、しやれた縫紋の剣かたばみがしつとりと光つてゐました。
「旅に出て少し遊び過ぎたので、ふところが寂しくなつたものですから、どこでしたつけ、通りがかりに一軒あたつてみましたが、馴染がないので断られてしまひました。」
「ほう、それはお困りでせうね。」私は旅先でまだ一面識もない自分を訪ねて、こんな事を頼まなければならないK氏の当惑を察しました。で、出来ることなら質屋の通帳を、四通でも、五通でも、ありつたけ取り出して用立てしたくは思ひましたが、不都合な事には、その持合せがなかつたので、私はひどく恐縮してあやまるやうに、
「手元に持合せてゐましたら、喜んで御用立てするのですが、あいにく一通も……」
「お持ちになりませんか。」
「持ちません。本当の事を申すと、質屋に入れる程な金目のものがないんですね。」
「御戯談でせう。」
 K氏は失望したらしい眼で座敷のなかをあちこち見まはしました。その眼にはこんな見すぼらしい家に縮かまつてゐながら、質屋の通帳一つ持たないといふ不都合なことがあるものかと、いくらか疑ふやうな気振りさへ見えました。
 その家といふのは、幸野楳嶺の長男に当る或る日本画家の持物で、貫名海屋の高弟として聞えた谷口靄山が亡くなるまで長く住んでゐた、由緒つきの古い家でした。ある時大阪から上つて来て、此の家で初めて靄山に弟子入りをした男がありました。高名な画家の住居にしては、見すぼらし過ぎる家だなと思ひ乍ら、内心いくらか弟子入りしたのを後悔してゐるとそれに気のつかない靄山は、次の間の物音に耳を立てながら、
「今娘が外から帰つて来たやうぢや。一寸会ってやつて下さい。」
と言ひました。画よりも女…

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