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ばらの花五つ
ばらのはないつつ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
初出「美しい暮しの手帖 十一号」暮しの手帖社、1951(昭和26)年2月
入力者竹内美佐子
校正者富田倫生
公開 / 更新2008-12-20 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 むかし私はたいそう暇の多い人間だつた。どうしてそんなに暇があつたのかと考へてみると、しなければならないもろもろの仕事をしなかつたせゐだらうと思はれる。
 さういふなまけものの人間が時たま忙しいことがあると、すぐ草臥れてしまつて、くたびれた時には散歩をした。
 さて、ある時の散歩に私の家からあまり遠くない馬込の丘をのぼつたり降りたりして歩いた。馬込九十九谷とか言つて、丘と谷がいくつも連なり、どの丘もどの谷もみんながそれぞれ違つた光と色を見せて、散歩するにはたのしい道であつた。その日私が歩いてゐたのは、今は小学校が建つてゐるその辺の谷から広い丘にのぼる小みちを少し左にまがつて東南に向いた傾斜面であつた。その辺は殆どみんな畑で、ごくたまに小さい別荘風の小家が見えたが、私がちよつと足をとめたのは、そのひろい斜面を庭にして(もと畑であつた土地ゆゑ、まだ樹は一本もみえなかつたが)ばら園をはじめるらしく、ばらの大きな株がいくつか植ゑられ、小さい株はごしやごしやとその辺いつぱいに見えた。ちやうど六月の初めで、大きな株にはたくさん花が咲いて咲きすぎる位だつた。
 その新ばら園の主人らしい人がその辺を掃除してゐたが、まだ四十ぐらゐの、背の高い清らかな風采の紳士みたいな人で、身なりはばら園のおやぢらしい恰好をしてゐたが、それはまだ借りものらしい姿に見えた。垣根もない路ばたに立つてゐた私はその主人と眼を見合せたので、かるくお辞儀をして、たいそう好いお花でございますねと、素人に対するやうなことを言つた。主人はすこしはにかんだやうに、いや、まだ始めたばかりで、あまり好い花は咲きませんと謙遜した。私は通りすぎようとしてもう一度言つた。そのお花をすこし分けていただけますかしら? どうぞ。いくつ位さし上げませうか? 五つ位、どうぞ、と言つた。主人は腰の鋏をとつて花をきらうとして、すこし躊躇するやうに言つた。これは、お代をいただいて、よろしいでせうか? はあ、けつこうでございます、どうぞ、と私も赤くなつた。のんきらしい顔をしてゐても、その大輪のばらの花を五つ、ただ無心する気はないのであつたが、新しいばら園の主人は代を取るといふことがたいそう骨の折れるむづかしい仕事らしく、それでは、一輪八銭づつ頂きますと言つて、花をきり始めた。さて五十銭銀貨を出すと、おつりをと、彼はポケツトに手を入れたが、いいえ、おつりは、もうけつこうでと私が止めたので、それでは花をもう一つと言つて、彼は咲きかけたつぼみを二つきつて出した。なんと、その可愛いもも色のつぼみが二つで十銭也のおつりであつた。私はその二つのつぼみを貰つたことが嬉しいやうな悲しいやうな気持で歩き出した。

 あとで聞いた噂では、そのばら屋さんは、東海道すぢの或る県のお役人で、知事さんのつぎ位な地位にゐた人であつたが、あるとき世間を騒がした疑獄事件で部…

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