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クリティシズムと認識論との関係
クリティシズムとにんしきろんとのかんけい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 第三巻」 勁草書房
1966(昭和41)年10月10日
初出「学芸」1938(昭和13)年10月
入力者矢野正人
校正者岩澤秀紀
公開 / 更新2011-11-24 / 2014-09-16
長さの目安約 51 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 クリティシズムの哲学的意義について、私は前に色々書いたことがある。今これを拡張しようと思う。哲学的意義という規定をもう少し厳密に云えば、夫を認識論的意義と云っていいだろう。なぜ哲学的ということが厳密にいうと認識論的ということになるかは、もっと一般的な先決問題であるが、それは話しを進めて行くうちにおのずから明らかになるとしよう。クリティシズムの認識論的意義とはつまり、認識論に於ける、或いは認識論の上に立っての、クリティシズムの機能ということであろう。この点今の処想像にまかせておく他ないが、もし仮にそうとすれば、クリティシズムが終局に於て認識論そのものの一環で、他ならぬ認識理論の一機能を意味する、という主張を結論しようと企てても、大して異とするには足りないだろう。
 だがこういう結論は単に必然であるだろうばかりではなく、実際問題から云うと、今日大いに必要なのである。特にクリティシズムについての知的省察が甚だ進んでいない日本の文化世界に於ては、之が最も必要なのである。そして文化の大道乃至本道を推し進めるための洞察としては、愈々以て之は切実な必要なのである。

 芸術が一般に表現であるということは今日の常識である。芸術作品は人間性か内部的生命か、生活か生か精神かの、外部への表出であるということを誰しも疑わない。芸術家の苦心は表現にある、と多くの芸術家は告白している(H・マティスの手記の如き)。だが、そういう常識を不作為に受け容れることと、そういう見解を特に取り立てて主張することとは、必ずしも同じことではない。告白と主張とは一つではない。なぜと云うに、或る判り切ったことを特に取り立てて主張するのは、何等かの対立物がそこに意識されているからで、対立物が何であるかによって、その主張の内容も本質が変って来るからだ。主張は一つの敵本主義を仮定する。之はもはや常識の単なる受容ではない。――だが更にそういう主張それ自身が、又やがて一つの常識の内容となることも忘れてならぬ。芸術は表現以外のものではなく正に表現でなければならぬ、という主張それ自身が、実を云うと、口に出すと否と物に書くと否とに拘らず、今日の常識の一つだ。結局、常識はいざとなると主張をし始めるものなのである。云わばそれが、色々の常識を持続させる処の慣性(スコラ学者が考えた実体の慣性)のようなものである。だから右のような常識は、主張でないようで結局は主張なのである。
 一例を挙げよう。スピンガーンは近代のクリティシズムが表現の研究に帰着しつつあることを指摘する(J. E. Spingarn, The New Criticism)。アリストテレスの『ポエティカ』を始めとしスカリゲルやボアローなどに至るカノン(規矩)主義的な批評精神に反抗して、今日の新しいクリティシズムは、作品をば、規格品としてではなく何物かの自由な表…

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