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この子を残して
このこをのこして
作品ID49192
著者永井 隆
文字遣い新字新仮名
底本 「この子を残して」 サン パウロ
1995(平成7)年4月20日
初出「この子を殘して」大日本雄辯会講談社、1948(昭和23)年
入力者菅野朋子
校正者富田倫生
公開 / 更新2010-08-09 / 2015-12-04
長さの目安約 207 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#挿絵]
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[#挿絵]
永井博士一家(写真右より誠一さん、博士、茅野さん)
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[#挿絵]
浦上天主堂の廃墟にたつ誠一、茅野兄弟。
[#改ページ]

この子を残して


 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
 ――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。
 ――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。というのは、その当時満州事変が始…

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