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死神
しにがみ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」 ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-10-19 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 往来で放歌をすることは、近頃大分厳ましくなったが、或意味からいうと許してもよさそうなものだ、というのは、淋しい所などを夜遅く一人などで通る時には、黙って行くと、自然下らぬ考事などが起って、遂には何かに襲われるといったような事がある、もしこの場合に、謡曲の好きな人なら、それを唸るとか、詩吟を口吟むとか、清元をやるとか、何か気を紛らして、そんな満らぬ考を打消すと、結局夢中にそんな所も過ぎるので、これ等は誠によいことだと自分は思う。
 明治十一年のこと、当時私は未だ廿五歳の青年であったが、東京へ上京して四年後で、芝の花園橋の直ぐ近所の鈴木某氏の門弟であった頃だ。私は一日と十五日との休日には、仮令雨がふっても雪がふっても、必ず自分の宿になってくれた、谷中清水町の高橋某氏の家へ遊びに行ったものだ。それは恰も旧暦八月の一日の夜で、即ち名月の晩だったが、私は例の通り、師匠の家をその朝早く出て、谷中に行って、終日遊んでとうとう夜食を馳走になって、彼処を出たのが、九時少し前、てくてく歩きながら帰途に就いたが、まだその時分のことで、あれから芝まで来る道には、随分淋しい所もあった。しかし何しろ秋の夜の空は拭った様に晴れ渡って、月は天心に皎々と冴えているので、四隣はまるで昼間のように明るい。人の心というものは奇妙で、月を見たり花を見たりすると一種の考が起るものだから、自分も今宵露に湿った地に映る我影を見ながら、黙って歩いて来ると偶然故郷のことなどが、頭脳に浮んだ、漸々自分の行末までが気にかかり、こうして東京に出て来たものの、何日我が望が成就して国へ芽出度帰れるかなどと、つまらなく悲観に陥って、月を仰ぎながら、片門前の通を通って、漸く将監橋の袂まで来た。その頃其処にあった蕎麦屋の暖簾越しに、時計を見ると、まだ十時五分前なので、此処から三分もかかれば家へ帰れるのだから、確に平時もの通り十時前には帰れると安心して、橋を渡って行った。その時にはまだ私も気が附いていたのだが、さて将監橋を渡り切る頃には、如何したものか、それから先きは、未だに考えてみても解らない。何しろ十時から十一時、十二時という、二時間の間というものは、何処を何して歩いたものか、それともじっと一と所に立止っていたものか、道にしたら僅かに三四町のところだが、そこを徘徊していたものらしい。やがて師匠の家に曲る横町も通過ぎて、花園橋の上に茫然と立っていたのだ。すると山内の方から、二人曳で威勢よく駈けて来た車が、何れ注意をしたものだろうが、私はそれが耳にも入らず中央に、ぽつりと立っていたので、「危険ない」と車夫が叫んだ拍子にどんと橋詰の砂利道の上に、私を突倒して行ってしまった。ハッと思った途端に、私はこの時初めて、我れと我心に帰って、気が付いてみると、そんな砂利の上に、横ざまに倒されている。乱暴な事をする奴だと、その車の行った方を…

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