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混沌
こんとん
作品ID49246
著者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鴎外全集 第二十六卷」 岩波書店
1973(昭和48)年12月22日
初出「在東京津和野小學校同窓會會報第六號」1909(明治42)年
入力者岩澤秀紀
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-06-08 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は話をすることが非常に下手なので、話をしろと云はれると實に氣になつてならない。若しこれが前以て知れてゐたならば、今日などは來ないのかも知れない。併し出し拔けに、奇襲を受けたやうに、豫告をせられたから、已むを得ず此處にすわつたのです。扨題があるかと思つて色々考へて見ましたが、題がない。雜誌を見ると蓮法寺謙と云ふ人が津和野人の性質と云ふことに就てお話になつてゐる。あれを私は大變に面白く思つて讀んだ。どう云ふ人か私は知りませぬし、あの人の説を批評するのでも反駁するのでもありませぬが、先刻から同じ事に就いて色々考へて見ましたから、詰まらぬ事を話します。津和野の人は小才だと云ふことが書いてある。其處に圈點が附けてあるから話の要點であつたのでせう。さう云ふやうな心得は私も多少持つてゐる。さて人の器の大きい小さいと云ふことを見るのはどう云ふ所で見るだらう。例之ば津和野にをつた者が東京に出て來る。或は内地にをつた者が洋行すると云ふ場合に、隨分人の大きい小さいが見えるやうに思ひます。私の津和野を出た時は僅に十四ばかりの子供であつた。それだから人を觀察するどころではなく、何も分からなかつた。後に洋行した頃になると、私も二十を越してをりましたから、幾らか世の中の事が分かるやうになつてゐました。其頃日本人が歐羅巴に來る度に樣子を觀てをりました。どうも歐羅巴に來た時に非常にてきぱき物のわかるらしい人、まごつかない人、さう云ふ人が存外後に大きくならない。そこで私は椋鳥主義と云ふことを考へた。それはどう云ふわけかと云ふと、西洋にひよこりと日本人が出て來て、所謂椋鳥のやうな風をしてゐる。非常にぼんやりしてゐる。さう云ふ椋鳥が却つて後に成功します。それに私は驚いたのです。小さく物事が極まつて居るのはわるい。譬へて見れば器の中に物が充實してゐる。そこで歐羅巴などへ出て來て新しい印象を受けて、それを貯蓄しようと思つた所で、器に一ぱい物が入つてゐて動きが取れぬ。非常に窮屈である。さう云ふやうに私は感じました。何だか締りの無いやうな椋鳥臭い男が出て來て、さう云ふのが後に歸る頃になると何かしら腹の中に物が出來て居る。さういふ事を幾度も私は經驗しました。物事の極まつてゐるのは却つて面白くない。今夜私はお饒舌をしますが、此お饒舌に題を附ければ、混沌とでも云つて好いかと思ふ。唯混沌が混沌でいつまでも變化がなく活動がなくては困りますが、その混沌たる物が差し當り混沌としてゐるところに大變に味ひがある。どうせ幾ら混沌とした物でも、それが動く段になると刀も出れば槍も出れば何でも出て來る。孰れ動く時には何かしら出て來る。けれども其土臺は混沌として居る。餘り綺麗さつぱり、きちんとなつてゐるものは、動く時に小さい用には立つが、大きい用に立たない。小才と云ふのもそんなやうな意味ではないかと思ふのです。こゝで私は心理學の…

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