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小山内薫先生劇場葬公文
おさないかおるせんせいげきじょうそうこうぶん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「久保 栄全集 第五巻」 三一書房
1962(昭和37)年10月5日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-01-06 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 築地小劇場劇団部主事小山内薫先生は、昭和三年十二月二十五日午後七時、日本橋亀島町旗亭「偕楽園」において発病、主治医蘆原信之氏看護のもとに危篤のまま四谷南寺町七番地の自宅に送られ、同日午後十一時ついに永眠せられた。宿痾の動脈硬化症による心臓麻痺のためである。遺族、近親は遺骸を二階十畳の間に安置し、喪を秘して翌朝に及び、二十六日午前六時を期して、一斉に都下の各新聞社に、先生の逝去を発表した。
 臨終の夜、築地小劇場員中、小山内先生の指名せられた第一諮問委員、土方、青山、友田、北村、第二諮問委員、汐見、東山、和田、水品、久保、土方(梅)および経営主任千早、神尾、秘書土橋は、四谷箪笥町土方宅に会合して葬儀の方法を協議し、数案を携えて遺族、近親にはかり、その裁決を仰いで仏式による劇場葬をもって先生を葬ることに決定した。ただちに土方与志を葬儀委員代表に推し、前記の人々が葬儀委員として事務を掌ることとなった。二十六日午前十時、築地小劇場に劇場員一同を集めて、青山杉作が以上の経過を報告した。
 菩提寺、牛込若松町金谷山宝祥寺の住持秋山暁道師によって先生の戒名は「蘭渓院献文慈薫居士」と名づけられ、二十六日午後三時納棺された。納棺に先立ち、吉田久継氏が遺族の希望によってデスマスクを取った。二十六七日の両夜、遺族、近親、劇壇、文壇、映画界その他の知友子弟一同棺前に侍して通夜を営んだ。
 二十八日は告別式の当日である。午前十時から自宅において最後の読経焼香を行い、午後十二時五分出棺した。喪主小山内徹氏をはじめ遺族、近親、劇場代表者「三田文学」「子分の会」「劇と評論」各代表者が葬列に加わった。劇場員一同は午前十一時式場に参集し、諸般の準備を整えて霊柩を迎えた。各方面から送られた生花造花をもって飾られた舞台の正面に霊柩を安置し、午後一時から宝祥寺住持秋山暁道師によって読経が始められた。次いで劇場を代表して青山杉作が追悼文を朗読し、以下、文芸家協会(長田秀雄氏)国民文芸会(長崎英造氏)学士会(北村喜八代読)三田文学(久保田万太郎氏)松竹興業株式会社(井上伊三郎氏)帝国劇場(山本久三郎氏)新劇協会(畑中蓼坡氏)左翼劇場(小野宮吉氏)新思潮社(青江舜二郎氏)日露芸術協会(金田常三郎氏)芽生座(伊藤基彦氏)子分の会(牛原虚彦氏)劇と評論(北村寿夫氏)の弔辞、ソ同盟対外文化連絡協会長カメネワ夫人の弔電の朗読があった。遺族、近親の焼香の後、劇場代表者土方与志が霊前に香を焚いた。午後二時から一般の焼香に移ったが、その間劇場員、「三田文学」「子分の会」「劇と評論」の代表者は、交互棺側に侍して弔問客に応接した。当日の参会者は、千二百人をくだらなかった。松竹キネマの撮影技師は、告別式の状況をカメラに納めた。午後四時一般焼香を終って、葬列はふたたび式場を発し、同五時半桐ヶ谷火葬場に到着、遺骸を荼毘に附した…

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