えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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恩を返す話
おんをかえすはなし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「菊池寛 短篇と戯曲」 文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日
入力者真先芳秋
校正者鈴木伸吾
公開 / 更新2000-01-26 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 寛永十四年の夏は、九州一円に近年にない旱炎な日が続いた。その上にまた、夏が終りに近づいた頃、来る日も来る日も、西の空に落つる夕日が真紅の色に燃え立って、人心に不安な期待を、植えつけた。
 九月に入ると、肥州温泉ヶ嶽が、数日にわたって鳴動した。頂上の噴火口に投げ込まれた切支丹宗徒の怨念のなす業だという流言が、肥筑の人々を慄れしめた。
 凶兆はなお続いた。十月の半ばになったある朝、人々は、庭前の梅や桜が時ならぬ蕾を持っているのを見た。
 十月の終りになって、これらの不安や恐怖のクライマックスがついに到来した。それは、いうまでもなく島原の切支丹宗徒の蜂起である。
 肥後熊本の細川越中守の藩中は、天草とはただ一脈の海水を隔つるばかりであるから、賊徒蜂起の飛報に接して、一藩はたちまち強い緊張に囚われた。
 しかも一揆が、かりそめの百姓一揆とちがって、手強い底力を持っていることが知れるに従って、一藩の人心はいよいよ猛り立った。家中の武士は、元和以来、絶えて使わなかった陣刀や半弓の手入れをし始めた。
 松倉勢の敗報が、頻々と伝えられる。しかし、藩主忠利侯は在府中である上に、みだりに援兵を送ることは、武家法度の固く禁ずるところであった。国老たちの協議の末、藩中の精鋭四千を川尻に出して封境防備の任に当らしめることになった。
 わが神山甚兵衛も、この人数のうちに加わっていた。成年を越したばかりの若武者であったが、兵法の上手である上に、銅色を帯びた双の腕には、強い力が溢れている。
 国境を守って、松倉家からの注進を聞きながら、脾肉の嘆を洩しているうちに、十余日が経った。いよいよ十二月八日、上使板倉内膳正が到着した。細川勢は、抑えに抑えた河水が堤を決したように、天草領へ雪崩れ入った。が、しかし一揆らが唯一の命脈と頼む原城は、要害無双の地であった。搦手は、天草灘の波濤が城壁の根を洗っている上に、大手には多くの丘陵が起伏して、その間に、泥深い沼沢が散在した。
 板倉内膳正は、十二月十日の城攻めに、手痛き一揆の逆襲を受けて以来、力攻めを捨てて、兵糧攻めを企てた。が、それも、長くは続かなかった。十二月二十八日、江府から松平豆州が上使として下向したという情報に接すると、内膳正は烈火のごとく怒って、原城の城壁に、自分の身体と手兵とを擲げ付けようと決心した。
 細川家の陣中へも、総攻めの布告が来た。しかし翌二十九日は、冬には希な大雨が降り続いて、沼池の水が溢れた。三十日は、昨日の大雨の名残りで、軍勢の足場を得かねた。
 あくる寛永十五年の元朝は、敵味方とも麗かな初日を迎えた。内膳正は屠蘇を汲み乾すと、立ちながら、膳を踏み砕いて、必死の覚悟を示した。
 この日は、夜明け方から吹き募った、烈風が砂塵を飛ばして、城攻めには屈強の日と見えた。正辰の刻限から、寄手は、息もっかず、ひしひしと攻め寄った。

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