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徒歩
とほ
作品ID49509
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
入力者竹内美佐子
校正者林幸雄
公開 / 更新2009-10-05 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 銭形平次の時代には乗物といつてもバスも電車もなく、さうむやみとお駕籠にも乗れなかつたらうから、八五郎が聞きこみをすれば、向う柳原の伯母さんの家からすぐ飛び出して神田の平次の家まで駈けてゆく。そらつと言つて平次は両国だらうが浅草だらうが吉原だらうが行つてみなければならない。歩く方に精力を使つてくたびれてしまふだらうと思はれるけれど、その時分はそれでけつこう用が足りてゐたらしい。平次が江戸で犯人の足どりを考へてゐるあひだに、八五郎は三浦三崎まで出かけて、三日三晩やすまずに容疑者の故郷を悉しく調べて帰つてくる。現代人ならば東京に帰る前につぶれてしまふところだけれど、八五郎は足に豆を拵へたぐらゐで平気でゐる。何もみんな習慣の力であらう。
 銭形平次まで遡つて考へないでも、私たち明治の人間の子供時代には、大人も子供もずゐぶんよく歩いてゐた。人力車が安かつたといひながら、それはやはりぜいたくであつた。私の少女時代、土曜日のやすみに寄宿舎から二人乗りの人力に友達と二人で乗つて銀座の関口や三枝へ毛糸だのリボンだの買ひに行き、帰つてくると二人でその車代を払つて、歩いて行けるところだともつと何か買へたのね、なんてさもしい勘定をしてゐた。麻布から銀座まで往復の車代はいくらだつたか覚えてゐないが、とにかく今のハイヤー位の割合で相当なものであつたのだらう。
 学校を出てから私は佐々木信綱先生の神田小川町のお宅まで、歌のおけいこや源氏物語のお講義を伺ふため一週一度づつ通つた。ずつと以前中国公使館があつたその坂の下で、永田町二丁目の私の家からは神田小川町までかなり遠かつた。朝九時ごろ人力でゆき、帰りは十二時ごろ向うを出てぶらぶら歩いて帰ると、ちやうど一時間ぐらゐになつた。小川町から神田橋へ出て、和田倉門をよこに見て虎の門へ出る、やうやく溜池の通りまで来ると、右のほそい道へまがつて山王の山すそのあの辺の道が永田町二丁目だつた。
 帰るとお昼をたべてお茶を飲んで夕方まで何もしないで草臥れをなほす工夫をしてゐた。それに、その時分の年ごろは遠路を歩いて脚のふとくなることも苦痛の一つだつた。父が勤めをやめて家に引込んでゐた時なので、われわれの家の娘が歌の稽古のために車の送り迎へなぞはぜいたくであると言つてゐたから、片道だけ車にのるのは母の親切によつたので、そんな風にして先生のお宅に通ふといふことはよほど歌が好きだつたためで、つまり文学少女なのだつた。
 また或る日は小川町から神保町を通り賑やかな店々を見て――その中でも半襟屋をのぞくことは愉しかつた。本屋はのぞかなかつたやうである――それから九段坂をのぼり、お堀ばたを歩いて半蔵門や麹町通りを横眼に見ながらだらだら坂に来てから右に折れて、麹町隼町に出る、そのつぎが永田町の高台だつたと思ふ、こんな事を考へてゐると車屋さんか運転手みたいだけれど、じつに…

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