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雪の一日
ゆきのいちにち
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日
初出「新潮」1933(昭和8)年3月号
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-12-22 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 三月二十日、土曜日。午前八時ごろに寝床を離れると、昨夜から降り出した雪はまだ止まない。二階の窓をあけて見ると、半蔵門の堤は真白に塗られている。電車の停留場には傘の影がいくつも重なり合って白く揺いている。雪を載せたトラックが幾台もつづいて通る。雨具をつけて自転車を走らせてゆくのもある。紛々と降りしきる雪のなかに、往来の男や女はそれからそれへと続いてゆく。さすがは市中の雪の晨である。
 顔を洗いに降りてゆくと、台所には魚屋が雪だらけの盤台をおろしていて、彼岸に這入ってからこんなに降ることはめずらしいなどと話していた。その盤台の紅い鯛の上に白い雪が薄く散りかかっているのも、何となく春の雪らしい風情をみせていた。
 私はこのごろ中耳炎にかかって、毎日医師通いをしているのであるが、何分にも雪が烈しいのと、少しく感冐の気味でもあるのとで、今朝は出るのを見あわせて、熱い紅茶を一杯啜り終ると、再び二階へあがって書斎に閉じ籠ってしまった。東向きの肱かけ窓は硝子戸になっているので、居ながらにして往来の電車路の一部が見える。窓にむかって読書、ときどきに往来の雪げしきを眺める。これで向う側に小学校の高い建物がなければ、堀端の眺望は一層好かろうなどと贅沢なことも考える。表に往来の絶え間はないようであるが、やはりこの雪を恐れたとみえて、きょうは朝から来客がない。弱虫は私ばかりでもないらしい。
 午頃に雪もようよう小降りになって、空の色も薄明るくなったかと思うと、午後一時頃からまた強く降り出して来た。まったく彼岸中にこれほどの雪を見るのは近年めずらしいことで、天は暗く、地は白く、風も少し吹き加って、大綿小綿が一面にみだれて渦巻いている。こうなると、春の雪などという淡い気分ではなくなって来た。寒暖計をみると四十五度、正に寒中の温度である。北の窓をあけると、往来を隔てたK氏の邸は、建物も立木も白く沈んで、そのうしろの英国大使館の高い旗竿ばかりが吹雪の間に見えつ隠れつしている。寒い北風が鋭く吹き込んで来るので、私はあわてて窓の雨戸をしめ切って、再び机のまえに戻った。K氏は信州の人である。それから聯想して、信州あたりの雪は中々こんなことではあるまいと思っているうちに、更に信州のT氏のことを思い出した。
 T氏は信州の日本アルプスに近い某村の小学校教員を勤めていて、土地の同好者をあつめて俳句会を組織しているので、私の所へもときどきに俳句の選をたのみに来る。去年の夏休みに上京したときに、この二階へもたずねて来て、二時間あまりも話して帰った。T氏は文学趣味のある人で、新刊の小説戯曲類も相当に読んでいるらしかったが、その話の末にこんなことをいった。
「御承知の通り、わたくし共の地方は冬が寒く、雪が多いので、冬から春へかけて四ヵ月ぐらいは冬籠りで、殆どなんにも出来ません。俳句でも唸っているのが一つの楽み…

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