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源之助の一生
げんのすけのいっしょう
作品ID49551
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日
初出「読書感興」1936(昭和11)年7月号
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-12-26 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 田圃の太夫といわれた沢村源之助も四月二十日を以て世を去った。舞台に於ける経歴は諸新聞雑誌に報道されているから、ここにはいわない。どの人も筆を揃えて、江戸歌舞伎式の俳優の最後の一人であると伝えているが晩年の源之助は寄る年波と共に不遇の位地に置かれて、その本領をあまりに発揮していなかった。
 源之助が活動したのは明治時代の舞台で、大正以後の彼は殆ど惰力で生存していたかの感があった。したがって、今日彼を讚美している人々の大部分は、その活動時代をよく知らないように思われる。勿論、彼を悪くいう者はない。どの人も惜しい役者を失ったということに意見は一致しているらしいが、同じく惜まれるにしても、その真伎倆を知らずして惜まれるのは、当人の幸であるかどうか疑わしい。しかも前にいう通り、大正以後二十五年間は殆どその伎倆を完全に発揮する機会を封じられていたのであるから是非もない。
 彼は七十八歳の長寿を保ったので、子役時代からでは七十余年間の舞台を踏んでいたといわれる。その間で彼が活動したのは明治時代、殊にその光彩を放ったのは、明治十五年十一月、四代目沢村源之助を襲名して名題俳優の一人に昇進して以来、明治二十四年の七月、一旦東京を去って大阪へ下るまでの十年間であった。即ち彼が二十四歳の冬より三十三歳の夏に至る若盛りであった。
 今日では劇界の情勢も変って、このくらいの年配の俳優は、いわゆる青年俳優として取扱われ、大舞台の上に十分活躍するの機会を恵まれない傾向があるが、明治の中期まではそんな事はなかった。青年俳優でも何でも相当の技倆ある者は大舞台に活躍する事を許されていた。その点に於て、青年時代の源之助は大いに恵まれていたともいい得るかも知れない。
 江戸末期より明治の初年に亘って、名女形として知られた八代目岩井半四郎は、明治十五年二月、五十四歳を以て世を去った。源之助がその年の冬、四代目源之助を襲名したのも、彼を以て半四郎の候補者とする劇場側の意図であったらしい。たとい半四郎には及ばずとも、その容貌も美しく、音声も美しい源之助が、半四郎の後継者と認められたのは当然であった。果してその後の彼はメキメキと昇進した。まだ二十代の青年俳優が団十郎、菊五郎、左団次らの諸名優を相手にして、事実上の立おやまに成り済ましたのである。
 その当時、他にも相当の女形がないではなかったが、源之助の人気は群を抜いていた。いわゆる伝法肌で気品のある役には不適当であるといわれたが、それでもあらゆる役々を引受けて、団菊左と同じ舞台に立っていた。その黄金時代は明治二十三年であった。
 二十三年の七月、市村座――その頃はまだ猿若町にあった――で黙阿弥作の『嶋鵆月白浪』を上演した。新富座の初演以来、二回目の上演である。菊五郎の嶋蔵、左団次の千太は初演の通りで、団十郎欠勤のために、望月輝の役は菊五郎が兼ねていた。た…

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