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思い出草
おもいでぐさ
作品ID49558
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日
初出「木太刀」1910(明治43)年11月、1911(明治44)年1月号
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-12-29 / 2014-09-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一 赤蜻蛉

 私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更に止まって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴の朝、巷に立って見渡すと、この町も昔とは随分変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
 江戸時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、更に拓かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が始めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだが、今では一坪二十銭以上、場所に依ては一坪四十銭と称している。
 私が幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到る処に草原があって、蛇が出る、狐が出る、兎が出る。私の家の周囲にも秋の草花が一面に咲き乱れていて、姉と一所に笊を持って花を摘みに行ったことを微かに記憶している。その草叢の中には、所々に小さな池や溝川のようなものもあって、釣などをしている人も見えた。今日では郡部へ行っても、こんな風情は容易に見られまい。
 蝉や蜻蛉も沢山にいた。蝙蝠の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮には、子供が草鞋を提げて、「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴の日には小さい竹竿を持って往来に出ると、北の方から無数の赤蜻蛉がいわゆる雲霞の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩き落すと、五分か十分の間に忽ち数十疋の獲物があった。今日の子供は多寡が二疋三疋の赤蜻蛉を見付けて、珍らしそうに五人も六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼう日和であるが、殆ど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼前に泛んで、年ごとに栄えてゆくこの町がだんだんに詰らなくなって行くようにも感じた。

     二 芸妓

 有名なお鉄牡丹餅の店は、わたしの町内の角に存していたが、今は万屋という酒舗になっている。
 その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目の裏町には芸妓屋もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮な町ではなかったらしい。
 また、その頃のことで私が能く記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確に今の方がいい。下町は知らず、我々の住む山の手では、商家でも店でこそランプを用いたれ、奥の住居では大抵行灯を点していた。家に依ては、店頭にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯灯もない、電灯もない、軒ランプなども無論なかった。随って夜の暗いことは殆ど今の人の想像の及ばない位で、湯に行くにも提灯を持ってゆく。寄席に行くにも提灯を持ってゆく。加…

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