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硯友社の勃興と道程
けんゆうしゃのぼっこうとどうてい
副題――尾崎紅葉――
――おざきこうよう――
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 思い出す人々」 岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日
初出「きのふけふ」博文館、1916(大正5)年3月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-07-31 / 2014-09-16
長さの目安約 64 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

一 飯田町の中坂――馬琴と「まどき」と思案外史

 震災で破壊された東京の史蹟のその中で最も惜まれる一つは馬琴の硯の水の井戸である。馬琴の旧棲は何度も修繕されて殆んど旧観を喪ってるから、崩壊しても惜くないが、台所口の井戸は馬琴の在世時のままだそうだから、埋められたと聞くと惜まれる。が、井戸だから瓦や土砂で埋められても旧容を恢復するのは容易である。
 この馬琴の硯の水の井戸は飯田町の中坂の中途、世継稲荷の筋向いの路次の奥にある。中坂といっても界隈の人を除いては余り知る者もあるまいが、九段の次の険しい坂である。東京のジオグラフィーを書くものは徳川三百年間随一の大文豪たる滝沢馬琴の故居の名蹟としてのこの中坂を特記する事を忘れてはならない。
 馬琴は二十七、八歳、通油町の地本問屋蔦屋重三郎の帳面附けをしていた頃或人の世話で中坂の下駄屋で家主なる寡婦の入夫となった。漸く高名となってからは下駄屋を罷めて手習師匠となり、晩年には飯田町の家は娘に婿を取って家主の株を継がせ、自分は忰宗伯のために買った明神下の家に移って同居したが、一生の殆んど大部分は飯田町に暮したのだ。
 九段の長谷川写真館の真向いを東へ下りる坂の下り口の北側が今では空地となってるが、この空地を外れて二、三軒目にツイ二十年前まであった小さな瀬戸物屋が馬琴の娘の婿の家で、今でも子孫が無商売でこの裏に住んでるそうだ。この路次裏の井戸が即ち馬琴の硯の水で、文芸の理解のない官憲も馬琴の名だけは知っていたと見えて、数年前から東京史蹟の高札が建てられた。王侯将相よりも文豪の尊敬される欧羅巴なら疾くに日本の名蹟とし東京の名誉とし将た飯田町の誇りとして手厚く保管し、金石に勒して永久に記念されべきはずであるが、戦場で拾って来た砲弾の記念碑を建てる事を知っていても学者や文人の墓石は平気で破壊するを少しも怪まない日本では、縦令高札を建てても何時この貴い古井戸を埋めてしまわないとは限らない。が、この古井戸がどうなろうとも、この中坂はグレート馬琴が半生を暮した故居の地として永久に記念されべき史蹟である。
 不思議にもこの中坂は文豪馬琴の史蹟であると共にまた、明治の文学史に一エポックを作った硯友社の発祥地でもある。
 中坂上の南側に秀光舎という印刷所がある。この秀光舎の前身は同益出版社といって、今から四十年前に小説復刻の元祖たる南伝馬町の稗史出版社に続いて馬琴の『俊寛僧都島物語』や風来の『六々部集』を覆刻したので読書界に知られた印刷所であった。この工場と相対ってる北側に、今は地震で崩されて旧観を更めてしまったが、附属の倉庫の白壁の土蔵があった。硯友社という小さな標札がこの土蔵の戸口に掛ったのがタシカ明治二十一年夏の初めであった。尤も『我楽多文庫』はそれより二タ月前頃から公刊されていたが、飯田町の国学院大学の横町の尾崎の家を編輯所兼発行所…

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