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明治の文学の開拓者
めいじぶんがくのかいたくしゃ
作品ID49575
副題――坪内逍遥――
――つぼうちしょうよう――
著者内田 魯庵
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 思い出す人々」 岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日
初出「新潮」1912(明治45)年1月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-26 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 坪内君の功労は誰でも知ってる。何も特にいわんでも解ってる。明治の文学の最も偉大なる開拓者だといえばそれで済む。福地桜痴、末松謙澄などという人も創業時代の開拓者であるが、これらは鍬を入れてホジクリ返しただけで、真に力作して人跡未踏の処女地を立派な沃野長田たらしめたのは坪内君である。
 有体にいうと、坪内君の最初の作『書生気質』は傑作でも何でもない。愚作であると公言しても坪内君は決して腹を立てまい。私が今いうと生意気らしいが、私は児供の時からヘタヤタラに小説を読んでいた。西洋の小説もその頃リットンの『ユーゼニ・アラム』を判分教師に教わり教わりながらであるが読んでいた。(これが私の西洋の小説を読んだ初めで。)であるから貸本屋の常得意の隠居さんや髪結床の職人や世間普通の小説読者よりは広く読んでいたし、幾分かは眼も肥えていた。であるから坪内君の『書生気質』を読んでも一向驚かず、平たくいうと、文学士なんてものは小説を書かせたら駄目なものだと思っていた。格別気にも留めずにいた。その時分私の親類の或るものが『書生気質』を揃えて買って置きたいからって私に買ってくれといった時、私はあんなツマラヌものはおよしなさい、アレよりは円朝の『牡丹燈籠』の方が面白いからといって代りに『牡丹燈籠』を買ってやった事がある。『牡丹燈籠』は『書生気質』の終結した時より較やおくれて南伝馬町の稗史出版社(今の吉川弘文館の横町)から若林[#挿絵]蔵氏の速記したのを出版したので、講談速記物の一番初めのものである。私は真実の口話の速記を文章としても面白いと思って『牡丹燈籠』を愛読していた。『書生気質』や『妹と背鏡』は明治かぶれのした下手な春水ぐらいにしか思わなかった。
 私のような何にも知らないものさえ実はこの位にしか思わなかったのだから、その当時既にトルストイをもガンチャローフをもドストエフスキーをも読んでいた故長谷川二葉亭が下らぬものだと思ったのは無理もない、小説に関する真実の先覚者は坪内君よりは二葉亭であるといっても坪内君は決して異論なかろうと信ずる。私は公平無偏見なる坪内君であるが故に少しも憚からずに直言する。
 けれども『書生気質』や『妹と背鏡』に堂々と署名した「文学士春の屋おぼろ」の名がドレほど世の中に対して威力があったか知れぬ。当時の文学士は今の文学博士よりは十層倍の権威があったものだ。その重々しい文学士が下等新聞記者の片手間仕事になっていた小説――その時分は全く戯作だった――その戯作を堂々と署名して打って出たという事は実に青天の霹靂といおう乎、空谷の跫音といおう乎、著るしく世間を驚かしたものだ。
 自分の事を言うのは笑止しいが、私は児供の時から余りアンビションというものがなかった。この点からいうとよほど馬鹿だった。それ故大学を卒業して学士になろうなどという考は微塵もなく、学士というものがど…

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