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二つの松川
ふたつのまつかわ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「山の旅 大正・昭和篇」 岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年11月14日
初出「旅」1936(昭和11)年11月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-07-30 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 かわいい二本のレールは、乱雑に積み重ねられた伐材の中に消えていた。あわてて二、三尺の赤土をかき登ると、思いもかけなかった大道がかなりの急カーヴを描いて目の前にあった。大雨の跡をしのばせる水たまりが諸所に光って、湿った白砂の上には太いタイヤの跡が……。大平街道だ。道ばたの切石に腰をおろして、こうした山歩きの終わりにはだれもがするように悠々とパイプに火を点じて、FINE の煙文字を蒼穹に書いた。
 われわれの物ずきに近い足跡を語る前に、まずその地理について説明を加えなければならぬほど、そこは辺陬に属する場所であり、同時に山の持つ秘密な境地であったかもしれない。……中央アルプスを思い切って南下する大平街道は、木曾と伊那とが有機的につながりを持つ唯一の廊下だ。飯田からこの廊下伝いに行くと、一脈の藍流が街道に沿うて走っているのを発見する。その流れは市之瀬橋で急角度に北転してさかのぼること二〇キロ余り、念丈ガ岳西北面の御料林の中に没している。松川! それがこの谷の名称だ。だが、念丈ガ岳の東側からも同じ松川の名称を冠された一条の峡谷が、東南東に山を割っている。この方は飯田から十二キロも北上した所で、ともに天竜川への貢物となっているのだ。二つの松川が、地形図の上で黙示するすばらしい岩壁、連続する瀑布、三角州のような広い磧、塗りつぶしたような奥深い原始林などによってわれわれを妖しくひきつけてからどのくらい日がたったことであろう。僕が大平街道でギャソリンのにおいをかいだ時に満足なる終了を味わったのは、そのような個人的な要素が多く働いていたのかもしれない。
 双生児のようなこの谷の区分は、前者を飯田松川、後者を片桐松川とする土地の呼称に従うのが一番賢明な方法だろう。われわれは片桐から入って飯田に抜けたのである。飯田松川に比べると、三分の一の距離しかない片桐松川ではむしろ惨憺たる悲歌を聞いたけれども、飯田松川の長流では反対に安逸の浪費をさえ感じた。ペンの旗をどちらからのぼっても、その終局点にあたる念丈ガ岳二二九〇・六メートルの三角点に立てよう。
 鋭い南風が、音のない霧の波を念丈の頂にたたきつけていた。たそがれのあせた光がその厚ぼったい霧の裏にポッとにじんでいる時刻だ。頂上は寒い。霧は一切の視線を閉鎖している。だれもが疲れ切っているのだ。だのにわれわれの間には、口に表わすのはむしろ無用であるほどの喜びがみなぎっていた。それはなぜであったか。見たまえ。実に須臾の間であったが、風の鋭利な刃がしつこい霧の幕をズタズタに引き裂いて、やきつくようなわれわれの目の下にひねくれた片桐松川の水の輝きがあったからだ。苦闘二日のあの惨虐な谷の姿が!
 きのう、片桐の部落を離れるころ、澄明な空気は全く熟して、蒼い穹窿は太陽の送る光のミサに氾濫していた。だのにりっぱな道が尽きて磧に下りついたころには、西…

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