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東洋文化史における仏教の地位
とうようぶんかしにおけるぶっきょうのちい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「高楠順次郎全集 第一巻」 教育新潮社
1977(昭和52)年2月25日
初出外務省文化事業部に於ける講演、1930(昭和5)年2月15日
入力者大橋重紀
校正者小林繁雄
公開 / 更新2009-02-07 / 2014-09-21
長さの目安約 70 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

         一

 今日ここに講演の機会を与えていただいたことは感謝するところでありますが、果してご満足を得るかどうかを甚だ疑うのであります。書き出しておきました題目はこういう大きな題目でありますが、それの一小部分をお話するようなことに終ってしまうであろうと思うのであります。話の順序といたしましてインドのことが相当に多くを占めることと考えますが、これはどうか予めお許し下さることをお願い申しておきます。
 インドは理想の国であります、理想の国とのみでは分りませんが、理想を製造する国であります。この理想ということを解しなくてインドを統御することはとうてい為し得ないことであります。理想と申しましても非常に風変りの理想でありましてすべての方面で他の国とは全く違った理想を持っているのであります。人類愛――人間がお互いに愛するということはよく人の説くことでありますけれども、インドではこれを押し拡めて動物愛としているのであります。その動物愛をまた押し進めてこれを宗教愛としているのでありますから、動物と親しむことは人間と同じで、ことに牛の如きは神聖の動物とされておりますからではありますけれども、殺すなどのことは無論しない、昔から牡牛は労働に使役しますが、牝牛は決して労働には使わないというふうで、牛の殺されるのを見るとインド人は自分の兄弟が殺される如くに感じ、直ちに自分の生命を棄ててもその牛を救いに行くというふうの人間なのであります。それで毎年マホメット教の祭の時には牛を殺すのであるが、その殺す前に意地悪く、これを今夜殺して犠牲に供するのであるといってインド人の町を牽いて歩いて皆に犠牲になる牛を見せるのであります。
 そうするとインドの青年は徒党を組んでその牛を助けに行く、それで毎年マホメット教とインド教との間に戦争が起こります。そういうふうの国柄であるのでありますからそこ、に[#「そこ、に」はママ]ヨーロッパの人たちがいくら親切をもって臨んでいっても、この理想の根本が違うのでありますから、牛刀を携えてそうして毎日牛を殺してそれを食物としているというふうではどうしてもインドの国を治めることができない、それはあたりまえであります。そういう風変りの国であります。かくも理想が違っていると同時に、解釈の仕方も全く違っているといってもよいので、その一例を申して見ますると、文明の起原といったならば、生存競争が文明の起原であるというのでありますがインドでは全くこれとは違って、生存競争とは何であるか、お互いが競争してその結局は他人を倒すということである、その生存競争の結果は人と人とが争うばかりでなく、国と国とが争うこととなって、ついに今度のように大戦争を惹起して、そうして世界が共倒れになる、それが生存競争の結果である。それが文明といい得るか、ほんとうの文明は生存競争は無意義であるという…

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