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銀座
ぎんざ
作品ID49640
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「荷風随筆集(上)」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2010-04-15 / 2019-12-12
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この一、二年何のかのと銀座界隈を通る事が多くなった。知らず知らず自分は銀座近辺の種々なる方面の観察者になっていたのである。
 唯不幸にして自分は現代の政治家と交らなかったためまだ一度もあの貸座敷然たる松本楼に登る機会がなかったが、しかし交際と称する浮世の義理は自分にも炎天にフロックコオトをつけさせ帝国ホテルや精養軒や交詢社の階段を昇降させた。有楽座帝国劇場歌舞伎座などを見物した帰りには必ず銀座のビイヤホオルに休んで最終の電車のなくなるのも構わず同じ見物帰りの友達と端しもなく劇評を戦わすのであった。上野の音楽学校に開かれる演奏会の切符を売る西洋の楽器店は、二軒とも人の知っている通り銀座通りにある。新しい美術品の展覧場「吾楽」というものが建築されたのは八官町の通りである。雑誌『三田文学』を発売する書肆は築地の本願寺に近い処にある。華美な浴衣を着た女たちが大勢、殊に夜の十二時近くなってから、草花を買いに出るお地蔵さまの縁日は三十間堀の河岸通にある。
 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江戸風の性行とが、そぞろに蔵前の旦那衆を想像せしむる我が敬愛する下町の俳人某子の邸宅は、団十郎の旧宅とその広大なる庭園を隣り合せにしている。高い土塀と深い植込とに電車の響も自ずと遠い嵐のように軟げられてしまうこの家の茶室に、自分は折曲げて坐る足の痛さをも厭わず、幾度か湯のたぎる茶釜の調を聞きながら礼儀のない現代に対する反感を休めさせた。
 建込んだ表通りの人家に遮ぎられて、すぐ真向に立っている彼の高い本願寺の屋根さえ、何処にあるのか分らぬような静なこの辺の裏通には、正しい人たちの決して案内知らぬ横町が幾筋もある。こういう横町の二階の欄干から、自分は或る雨上りの夏の夜に通り過る新内を呼び止めて酔月情話を語らせて喜んだ事がある。また梅が散る春寒の昼過ぎ、摺硝子の障子を閉めきった座敷の中は黄昏のように薄暗く、老妓ばかりが寄集った一中節のさらいの会に、自分は光沢のない古びた音調に、ともすれば疲れがちなる哀傷を味った事もあった。
 しかしまた自分の不幸なるコスモポリチズムは、自分をしてそのヴェランダの外なる植込の間から、水蒸気の多い暖な冬の夜などは、夜の水と夜の月島と夜の船の影とが殊更美しく見えるメトロポオル・ホテルの食堂をも忘れさせない。世界の如何なる片隅をも我家のように楽しく談笑している外国人の中に交って、自分ばかりは唯独り心淋しく傾けるキァンチの一壜に年を追うて漸く消えかかる遠い国の思出を呼び戻す事もあった。
 銀座界隈には何という事なく凡ての新しいものと古いものとがある。一国の首都がその権勢と富貴とに自から蒐集する凡ての物は、皆ここに陳列せられてある。われわれは新しい流行の帽子を買うためにも、遠い国から来た葡萄酒を買うためにも、無論この銀座へ来ねばならぬが、それと…

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