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途上
とじょう
作品ID49655
著者嘉村 礒多
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 49」 筑摩書房
1973(昭和48)年2月5日
初出「中央公論」1932(昭和7)年2月
入力者岡本ゆみ子
校正者林幸雄
公開 / 更新2009-06-06 / 2014-09-21
長さの目安約 52 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 六里の山道を歩きながら、いくら歩いても渚の尽きない細長い池が、赤い肌の老松の林つゞきの中から見え隠れする途上、梢の高い歌ひ声を聞いたりして、日暮れ時分に父と私とはY町に着いた。其晩は場末の安宿に泊り翌日父は私をY中学の入学式につれて行き、そして我子を寄宿舎に托して置くと、直ぐ村へ帰つて行つた。別れ際に父は、舎費を三ヶ月分納めたので、先刻渡した小遣銭を半分ほどこつちに寄越せ、宿屋の払ひが不足するからと言つた。私は胸を熱くして紐で帯に結びつけた蝦蟇口を懐から取出し、幾箇かの銀貨を父の手の腹にのせた。父の眼には涙はなかつたが、声は潤んでゐてものが言へないので、私は勇気を鼓して「お父う、用心なさんせ、左様なら」と言つた。眼顔で頷いて父は廊下の曲り角まで行くと、も一度振り返つてぢつと私を見た。
「おい君、君は汁の実の掬ひやうが多いぞ」
と、晩飯の食堂で室長に私は叱られて、お椀と杓子とを持つたまゝ、耳朶まで赧くなつた顔を伏せた。
 当分の間は百五十人の新入生に限り、朝毎をかしいぐらゐ早目に登校して、西側の控所に集まつた。一見したところ、それ/″\試験に及第して新しい制服制帽、それから靴を穿いてゐることが十分得意であることは説くまでもないが、でも私と同じやうに山奥から出て来て、寄宿舎に入れられた急遽な身の変化の中に、何か異様に心臓をときめかし、まだズボンのポケットに手を入れることも知らず、膝坊主をがたがた顫はしてゐる生徒も沢山に見受けられた。一つは性質から、一つは境遇から、兎角苦悩の多い過去が、ほんの若年ですら私の人生には長く続いてゐた。それは入学式の日のことであるが、消魂しいベルが鳴ると三人の先生が大勢の父兄たちを案内して控所へ来、手に持つた名簿を開けていち/\姓名を呼んで、百五十人を三組に分けた。私は三ノ組のびりつこから三番目で、従つて私の名が呼ばれるまでには夥しい時間を要した。或は屹度、及第の通知が間違つてゐたのではないかと、愬へるやうにして父兄席を見ると、木綿の紋付袴の父は人の肩越しに爪立ち、名簿を読む先生を見詰め子供の名が続くかと胸をドキつかせながら、あの、嘗て小学校の運動会の折、走つてゐる私に堪りかねて覚えず叫び声を挙げた時のやうな気が気でない狂ひの発作が、全面の筋肉を引き吊つてゐた。その時の気遣ひな戦慄が残り、幾日も幾日も神経を訶んでゐたが、やがて忘れた頃には、私は誰かの姿態の見やう見真似で、ズボンのポケットに両手を差し、隅つこに俯向いて、靴先でコト/\と羽目板を蹴つて見るまでに場馴れたのであつた。二年前まではこの中学の校舎は兵営だつたため、控所の煉瓦敷は兵士の靴の鋲や銃の床尾鈑やでさん/″\破壊されてゐた。汗くさい軍服の臭ひ、油ツこい長靴の臭ひなどを私は壁から嗅ぎ出した。
 日が経つにつれ、授業の間の十分の休憩時間には、私は控所の横側の庭のクローウヴァー…

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