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法王の祈祷
ほうおうのきとう
作品ID49704
原題RECIT DU PAPE INNOCENT Ⅲ
著者シュウォッブ マルセル
翻訳者上田 敏
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 上田敏全集 第一巻」 教育出版センター
1978(昭和53)年7月25日
初出「藝文 第六年第一号」1915(大正4)年1月
入力者ロクス・ソルス
校正者Juki
公開 / 更新2009-06-12 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 香煙と法衣とより離れて、わが殿中の一隅金薄の脱落ちたこの一室に来れば、ずつと気やすく神と語ることが出来る。こゝへ来ては、腕を支へられずに、わが老来を思ふのである。弥撒を行ふ間は、わが心自づと強く、身も緊つて、尊い葡萄酒の輝は眼に満ちわたり、聖なる御油に思も潤ふが、このわが廊堂の人げない処へ来ると、此世の疲に崩折れて、跼まるとも構ない。「見よ、この人を。」主は実に訓令と教書との荘厳を介して、其司祭等の声を聞取り給ふのではあるまい。紫衣も珠玉も絵画も主は確に嘉し給はぬ。唯この狭い密房の中より発するわが不束な口籠ならば、或は愍み給はむも知れぬ。主よ、かゝる老の身の予は、今こゝに白衣を着て御前に伺候し奉る。予はインノセンスと呼ばれて、君の知しめすが如く、何もえしらぬ。而して予が法王の聖職に在ることを容し給へ、聖職は始より既に制定せられ、予は唯に之に従ふのみ。予がこの高位を設置したのでは無い。予は先づ日の光を、色硝子の荘麗なる反映に窺はむより、寧ろこの円形の玻璃板に透見るを悦ぶ。世の常の老人の如く、予をして哭かしめ給へ、永遠の夜の波の上に、辛らく差上げたこの蒼白の皺顔を君の御前に向け奉る。わが世の終の日数の経ちゆく如く、この痩せ細つたる手指をそうて、わが指金も滑り落ちる。
 神よ、予はこの世に於ける君が御名代として、信仰の浄い葡萄酒を湛へた、このわが凹めたる手を捧げ奉る。世に大なる犯がある、極めて大なる犯がある。吾等は之を赦免し得る。世に大なる異端がある、極めて大なる異端がある。吾等は仮借せずに之を罰せねばならぬ。白衣を着けて、金薄も脱落したこの密房に跪く時、予は烈しい苦悶に悩んでゐる。主よ、世の中の犯と異端とは壮大なるわが法王職の領分に属するか、或はまた一介の老人が単に合掌するこの光の圏内に属するかを判じ難いからである。また君が御墓についても悩んでゐる。御墓はいつも異教徒にとり巻れてゐる。これが恢復を計る者も無い。今はたれも聖地に向つて君が御くるすを導くことなく、われらは皆昏々として眠つて居る。騎士は物の具を収め、国王は指揮を忘れた。主よ、われはまた胸をうつて、自ら責めてゐる。弱い哉、老いたる哉。
 廊堂のこの狭い密房に立ちのぼる、このわが囁に聞き給へ、而して御諭を授け給へ。わが臣下等はフランドル、独逸の国々より、馬耳塞、ジエノアの市々に亘つて、不思議の報知を送つて来る。今までに無い異端の宗派が生じた。処々の市々は黙したる裸形の女人等が走り歩るくを見た。この恥知らぬ唖の女等はたゞ天に指すばかり、又数多の狂人は朝に立つて、世の破滅を説く由。修道の隠者、流浪の学生たちは、いろいろの噂をしあふ。而していかなる心の狂惑にや七千有余の小児等は、それとなく心ひかれて家を棄て出た。御十字架と杖とをもつて、旅に出でた者が七千人もある。何の武器も有つてゐ無い。頼るべ無き幾千人の小児…

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