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蓄音器の針
ちくおんきのはり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中井正一全集 第四巻 文化と集団の論理」 美術出版社
1981(昭和56)年5月25日
初出「京都日出新聞」1933(昭和8)年6月5日
入力者鈴木厚司
校正者染川隆俊
公開 / 更新2009-10-18 / 2014-09-21
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 何の針をとって見てもヴィクターのソフトはヴィクターのソフトだ。針は現にひとつひとつ違っているんだがやはりヴィクターのソフトだ。どのひとつひとつもが一つの「型」にしかすぎない。
「型」の出現は一応販売あるいは組織から要求されてきたことである。
 今人間もようやく政策あるいは就職の形式をもって、道具化商品化しつつある。すなわち「型」可能形の中にはめられつつある。
 これまでの哲学では人間は最後の個別的現実であって、そこから新たな可能性、独創性、発明が生まれるところの測られざる未来を生み出す杭のように考えられてきた。そこに研究の自由の意味も拠ることができたのである。大学とはそこで個別性の最後の拠処でもあったのである。
 今やそれが歴史的転落によってはかなくも崩れ去りつつあるのである。
 すでに政策と就職によって、社会より一定の「型」の性格を強制せらるる場合、もしそれに追従するとすれば、何の研究を取り来たっても、何の研究者を取り来たっても一つの「型」がそこにできあがるのであって、それは人間ではなくして、一つの標準型の道具であり、販売化されたる商品である。過去の規定によるところの現在の強制であって、現在の不合理を飛躍するところの未来の展望では決してありえない。
 大学の抗争は単なる瀧川問題の意地張りではないであろう。
 人間が道具化され商品化されつつある全歴史性への人間全体の最後の抗争のあらわれである。
 人々はこの事件の底に、深淵に臨むごとき戦慄を、認識されないこころの深みにおいて見出しているのである。
 人々のこの事件への興味は、単なるスポーツのそれではない。自分たちにもはっきりわかっていない人間の不安が人々を刺戟しているのである。
 どれだけ多くの人々が一糸も乱れざる京大法学部教授の結束に、みずからは気づかずして、一脈の魂の涼しさを味わっているかしれない。人間を包む窒息しそうな濁った熱っぽい空気を今はじめて気がついたともいえよう。
 大学全体が、研究全体が、そして人間がついにすべて蓄音器の針のように、どれをとってみても一様にキチンとすかし絵の入ったベルトを巻かれた箱の中に横たわるのであろうか。
 人々の不安はそこになければならず、またその不安は除去されなければならず、新しい形をもってかたちづくらるべき不安でもある。
*『京都日出新聞』一九三三年六月五日号



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