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旧聞日本橋
きゅうぶんにほんばし
作品ID4972
副題12 チンコッきり
12 チンコッきり
著者長谷川 時雨
文字遣い新字新仮名
底本 「旧聞日本橋」 岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日
入力者門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-07-29 / 2014-09-17
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 アンポンタンはぼんやりと人の顔を眺める癖があったので、
「いやだねおやっちゃん、私の顔に出車でも通るのかね。」
 さすがの藤木さんもテレて、その頃の月並な警句をいった。
 小伝馬町の牢屋の原を廻る四角四面の町々に、アンポンタンの友達の分譜があり、学んだ学校があり、長唄稽古所があり、親の知合の家もあったから、私がポカンと立止って眺めているなにかしらが多くあった。もともと牢屋の原の居廻りは、日本橋という主都の中央でありながら、今でいえば新開の町だけに、神田区上町との間に流れる溝川の河岸についた、もとの大牢の裏手の方は淋しいパラッとした町で、呆けたような空気だった。そのかわりに今いえば日本橋区内の何処でもに見られない新職業があった。古鉄屑屋の前に立って、暗い土間の隅の釜で、活字が鉛に解かされてゆくのを何時までも眺めたりしていた。古莚に山と積んだ、汚ない細かい鉄屑が塵埃と一緒に箕で釜の中へはかりこまれると、ギラギラした銀色の重い水に解けてゆくのを、いくら見ていても厭きなかった。それが泥の中へこぼされると、なまこ型にかたまるのも面白かった。またある板がこいの中を覗くと、そこは地獄のように炎が嚇々と燃ていて、裸の小僧さんが棒のさきへ何かつけて吹くと、洋燈のホヤになるので息をのんで覗いていた。小さな瓶や、大きな瓶もすぐ出来上るのを見ていたが、暑さと苦しそうなのが、この見物とは反対に、こしらえている小僧さんたちにすまなく思わせた。
 表通りには鉄道馬車の線路のある日本の中央の幹線道路でありながら、牢獄のあった時代からはかなり過ぎているのに、人通りがなくて、道巾の広い通りには野道のように草が生えていた。ガラス工場などは板屋根だからよけいに草が茂っていたが、瓦葺の屋根にも青々とした草が黄色い花をつけていた。
 藤木氏がチンコッきりをしていたのもその近所だった。はじめ私が発見した時、私は藤木氏なんぞ目にも入れなかった。忙しなく煙草の葉を揃える人の手元や、ジャキジャキと煙草の葉を刻んでいる職人の手許を夢中になって眺めていた。
 その日の夕方、いつものように来て、藤木さんは母に呟していた。
「今日ってきょうは弱ったのなんのって、汗が出たね。だんまりはいいがね、いつまでもいつまでも立って見ているのだからね。こっちのほうがなにか言わなくちゃならない気がして――」
 だが真から心配そうにもいった。
「あんな道草していて、稽古にほんとにゆくのかしら?」
 その翌日あたしは、藤木さんのチンコッきりを立って見ていてはいけないと誡められた。そのついでに母と誰かが話していたのだが、チンコッきりおじさんは、職人としても好くないのだそうだ。細君の方は目が高くて、煙草の葉を選るのにたしかで早い、大事な内職人なので、その方を手離したくないために、役にたたない御亭主も雇っておいてくれる。家でも口やかましい人…

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