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冒した者
おかしたもの
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「三好十郎の仕事 第三巻」 學藝書林
1968(昭和43)年9月30日第1刷
初出「群像」1952(昭和27)年8、9月号
入力者伊藤時也
校正者伊藤時也、及川 雅
公開 / 更新2009-06-09 / 2014-09-21
長さの目安約 160 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 人物

須永
舟木(医師)
織子(その妻)
省三(学生・舟木の弟)
若宮(株屋)
房代(その娘)
柳子
浮山
モモちゃん

        1

 そうだ。もう芝居は、たくさんだ。いつまでやって見ても果てしの無い話だ。私たちの後ろにかくれて、私たちを踊らせている者がある。私たちはそれに気が附かずに、自分は自分の意志で自分のイノチを生きていると思って居る。そして自分を取りかこんだ観客から見られ、見られることで得意になり、セッセと演技をつづける。後ろにいるやつは、そこまで知っている。そこまで計算している。
 私たちの腹の底の底まで見抜いている。私たちがどう考えてどっちに転んでも、自分の演出の外へ抜けだすことは出来ないことを知っている。だからそいつはニヤニヤと声を立てないで笑っている。
 しかしもう飽きた。もうたくさんだ。なるほど、そいつの演出の外へ抜け出すことは出来ないかも知れないが、こうして、フフ、後ろを振向いて――見ろ――チラッと、こうして、そいつの顔をチラッと見てやる事は出来るのだ。そいつは、きまりを悪がって、顔をふせて、サッと居なくなる。又すぐ戻って来るが、いっとき居なくなる。その時間だけは私のものだ。この時間だけが私の自由だ。誰も私を演出していない。誰も私を見物していない。だから私は演じなくともよい。人のために自分の表情をゆがめる事なく、自分自身のためだけに僅かばかり生きるのだ。
 そうなのだ。私に入用なものは、生まのままの人生の荒々しい現実のひとかけらだ。ありのままの事実だけが必要だ。誰もが、それをああ眺めたり、こういじくったり、明るい光を当てたり暗いカゲを投げかけたりして色々の意味を附けない前の、全く意味のわからない、しかしたしかに現実そのものにはある――土の中から掘り出したばかりの、ひとかたまりの岩のように、荒れよごれて何の岩だかわからないが、岩であることだけはまちがいない、それだけが必要だ。犬は生の意味を悟らない。しかし生きている。犬のように私は生きねばならない。どうせその意味を悟って見たところで、ライフにはたくさんのひどい苦しみと、たくさんの中位の苦しみと、ごく僅かばかりの楽しみがあるきりだ。なぜそうなのだろうと考え迷った末に私はこれまで二度ばかり自殺しかけたことがある。
 今でも私は迷っている。わかった事は一つも無い。だのに私は自殺はしないだろう。……お前は死んだ。妻よ。私の中から何か大きなものを根こそぎ持ち去ってどこかへ行ってしまった。私は自分がどう言うわけでここにこうして生きているのか、生きておれるのか、まるでわからない。なるほど、お前はそこに居る。そこに私と並んで坐って私を見つめ、こうして私が原稿紙に書いている文章を読み、私の頭の中の考えの流れを見ている。お前はどこへも行きはしない。だのにお前はもうどうしようも無い遠方に行ってしま…

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