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水と砂
みずとすな
作品ID49849
著者神西 清
文字遣い新字旧仮名
底本 「雪の宿り 神西清小説セレクション」 港の人
2008(平成20)年10月5日
入力者kompass
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2012-02-13 / 2014-09-16
長さの目安約 55 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 山荘の夜

「此処から足許があぶなくなりますから、みなさんご用心よ。」
 彼等が、小流の畔に出ると、一ばん先に進んでゐた光代がかう言ひ棄てていきなり右へ折れた。驟雨に洗はれて空気の澄みきつた七月の初夜である。見あげれば少なからぬ星影は青く燦めいてゐるのであるが、此あたり一帯にすぐ背後に山を背負つてゐるために、闇は一しほに濃い。然し幸ひなことに砂みちであるので、その仄白さと、踏めばサラサラと微かに音を立てるのとで、さう歩き難い方ではない。よそ目には不機嫌と見えようまで黙りこくつた妹娘の真弓が姉のあとから歩いてゆく。真弓のあとに宏がついて行くのである。
 ――そのまがり角で、
「お先にいらつしやらない。」
と、真弓は無造作に振かへつた。
「いや、僕は一ばんあとが寛りしてゐていいな。」
「そオ。」
 そのまま彼女の姿は右手の小径に消える。宏はわざと二三間おくれた。
 小径は右に沿ふてはかなりの別荘の垣根つづきであるけれど、左手には薄が一めんに蔓つて、それでなくても狭い此道を更に三分の一ほども蔽ひかくしてゐる。その薄の叢を越えて二三尺も低く、細い流が闇にまぎれて、時たま思ひ出した様な鈍ひ水音を立ててゐる。これは如何にも、あの一風かはつた光代の選びさうな道である。
 三人はそのまま暫く黙つて歩いた。ともすると、突き出た薄が彼等の足を切りさうにするので、うつかり冗談も言へないのである。此小径に折れるまでは、真弓だけは滅多に口を出さなかつたにせよ、光代と宏とは殆どしきり無しに声高に話をしてゐた。そしてその合ひ間には、殊に光代が、甲高い笑声をひびかせるのであつた。さう言ふ風に笑ふことが此晩の光代には快よかつた。あまり健康さに恵まれてゐないため、もう二十三にもなりながら、みすみす婚期の過ぎてゆくのを見送らなければならない彼女であるのに、それに、仮令それがふとした気紛れであつたとはいへ、つい此間の或る男性との失敗した関係、それらの事情を、怜悧な眼でとつくに見抜いてゐて、決して表面にはあらはさないものの、内心には笑や憫れみやを抑へてゐるらしい妹の真弓の前で、ともかくも立派な青年である宏を相手に、こんなに愉快に笑声を立ててみせることが光代には快よかつたのである。そのうへ、彼女が愉快らしく振舞へば振舞ふだけますます沈黙に落ちてゆく真弓の今晩の様子が、光代には一種の征服感に似た気持を齎らすのであつた。折に触れて、座敷か茶の間かで、光代の話声や笑が高すぎたりすると、自分の指がコンサイス・オクスフォードの頁を繰つてゐる時でもポンピヤン・クリームの瓶をいぢつてゐる時でも同じ様に、
「うるさいのねえ、姉さんは。」
と、わざと誇張した顰め面をする我まま娘の真弓なのである。その真弓が、今晩はまだ親しみの淡い宏がゐるために、あの傑作な「うるさいのねえ」や顰め面を、一生懸命になつて我まんしてゐるに…

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