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『青丘雑記』を読む
『せいきゅうざっき』をよむ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「和辻哲郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日
初出「帝国大学新聞」1933(昭和8)年1月16日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-12-11 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

『青丘雑記』は安倍能成氏が最近六年間に書いた随筆の集である。朝鮮、満州、シナの風物記と、数人の故人の追憶記及び友人への消息とから成っている。今これをまとめて読んでみると、まず第一に著者の文章の円熟に打たれる。文章の極致は、透明無色なガラスのように、その有を感ぜしめないことである。我々はそれに媒介せられながらその媒介を忘れて直接に表現せられたものを見ることができる。著者の文章は、なお時々夾雑物を感じさせるとはいえ、著しくこの理想に近づいて来たように思う。これは著者の人格的生活における近来の進境を物語るものにほかならぬ。そうしてそのことを我々はこの書の内容において具体的に見いだすことができるのである。
 著者はこの書の序文において、「悠々たる観の世界」を持つことの喜びを語っている。この書はこのような心持ちに貫かれているのである。そうしてまさにその点にこの書の優れたる特色が見いだされると思う。
 観照もまた一つの態度としては実践に属する。それは時にあるいは有閑階級にのみ可能な非実践の実践として、すなわち搾取者の奢侈として特性づけられ得るであろう。あるいはまた怯懦な知識階級の特色としての現実逃避であるとも見られるであろう。しかしこれらの観照は「悠々たる」観の世界を持つものとは言えない。人が悠々として観る態度を取り得るのは、人間の争いに驚かない不死身な強さを持つからである。著者はシナの乞食の図太さの内にさえそれに類したものを認めている。寒山拾得はその象徴である。しからば人はいかにして不死身となり得るか。我を没して自然の中に融け入ることができるからである。著者はこの境地の内に無限に深いもの、無限に強いものを認める。「悠々たる」観の世界はかかる否定の上に立つものにほかならぬ。
 ところでこの「否定」は単なる否定ではない。それは著者によれば「本来の境地」の把捉である。いいかえれば「そこよりいで来たるその本源の境地に帰る」ことである。しからばその否定は否定の否定であり、従ってこの否定において没せられる我そのものがすでに一つの否定態でなくてはならぬ。著者はこのことを明白に論じてはいないが、自然と人事とを観る態度の「悠々たること」は実はここにもとづくのであり、また否定の陰に肯定のあることを関説するのもここに起因するのではないかと思う。
 悠々として観る態度が否定の否定を意味すると見るとき、我々はこの書の優れたる力を充分に理解し得るかと思う。著者は朝鮮、シナの風物を語るに当たって、我を没して風物自身のしみじみとした味を露出させる。しかもこれらの風物は徹頭徹尾著者の人格に滲透せられているのである。「観る」とはただ受容的に即自の対象を受け取ることではない。観ること自身がすでに対象に働き込むことである、という仕方においてのみ対象はあるのである。我は没せられつつ、しかも対象として己れを露出…

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