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偶像崇拝の心理
ぐうぞうすうはいのしんり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」 講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日
初出「新潮」1917(大正6)年4月
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-05-23 / 2014-09-16
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私がここに観察しようとするのは、「偶像破壊」の運動が破壊の目的物とした、「固定観念」の尊崇についてではない。文字通りに「偶像」を跪拝する心理についてである。しかしそれも、庶物崇拝の高い階段としての偶像崇拝全般にわたってではない。ただ、優れた芸術的作品を宗教的礼拝の対象とする狭い範囲にのみ限られている。
 特に私は今、千数百年以前の我々の祖先の心境を心中に描きつつ、この問題を考察するのである。

 まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科学、芸術、宗教、道徳その他医療や生活方法の便宜などへの関心等によって代表せられる人間の生のあらゆる活動が、なお明らかな分化を経験せずして緊密に結合融和せる一つの文化を思い浮かべる。そこでは理論は象徴と離れることができない。本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。体得した真理は直ちに肉体の上に強い力と権威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが融然として一つである。
 千数百年以前にわが国へ襲来した仏教の文化はまさにかくのごときものであった。それはただ一つの新しい宗教であるというだけではなく、我々の祖先のあらゆる心を動かし得る多方面な(恐らくはインドとシナの文化の総計とも言い得べき)、内容の豊かな大きい力であった。もしそれが、ローマを襲ったキリスト教のように、単にただ純然たる宗教であったならば、あれほど激烈にわが国の文化全体を動かし得たかどうかは疑わしい。我らの祖先は当時なお、一つの偉大な宗教をただ宗教として、あるいは一つの偉大な思想をただ思想として、受け容れるほどには熟していなかった(シナの思想と学者とが渡来して以来二百年の間に、我々の祖先はただ文字を使うことを覚えただけであった。しかも意義ある記録を残し得るほどにはそれを活用することができなかった)。仏教の背後にその芸術的要素やシナの文化やその他種々のものが活らいていたからこそ、我々の祖先はあのように大きく動き始めたのである。そうしてついに大きい時代を現出する事ができたのである。
 このことはやがて我々の祖先の一つの素質を説明することになるだろう。特に眼につくのは彼らが宗教から芸術的な歓喜を求めたことである。さらに進んで、信仰を感覚的な歓喜と結びつけたことである。前者は奈良時代の生んだ偉大な芸術によって証明せられている。後者は、その時代の僧侶がいかに人間の肉体の上にも勢力を持っていたかを明示している二三の著しい社会的現象によって、いや応なしに証明せられている。この特徴は、多少形を変えてはいるが、後来日本に発生したあらゆる宗教に必ず現われている。たとえば、日蓮宗や念仏宗におけるディオニゾス的な(肉体的運動、一種の舞踏に伴なう所の)、宗教的歓喜のごとき、その著しい例である。しかし後に現われたものがかなり強く実践的であるに反して、上代のものは特に明…

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