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沖縄の旅
おきなわのたび
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「青陵隨筆」 座右寶刊行會
1947(昭和22)年11月20日
初出「ドルメン 第二號~第九號」1932(昭和7)年5~12月
入力者林幸雄
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2006-02-20 / 2014-09-18
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

一 沖繩まで

 一月五日夕日の光に映ゆる壯嚴な櫻島の山影を後に、山崎君等の舊知に送られて、鹿兒島の港を後にした私は、土地の風俗や言葉を話す奄美大島や沖繩へ歸る人々の多くと同船して、早くも南島の氣分に漂はされた。船の名も首里丸である。幸にも此の冬の季節には珍らしい穩かな航海を續けて、夜は船長や事務長から恐ろしいハブの話や、不思議な島々の話に聞入り、次の日に大島の名瀬の港に大嶋紬の染織を見學して、テイチキと云ふ木が染料であることを覺え、七日の朝には早くいよ/\沖繩島の島影の見えるのに心を躍らした。
 今度思ひがけなく沖繩一見の旅に出るまでは、耻かしながら沖繩本島は淡路島か小豆島位の大さしかないものと思つて居たのであるが、成る程船の左舷の端から端へ連る此の海上に漂ふ長い朽繩の樣な「屋其惹」の島は、長さ四十里にも近いと云ふのは本當だと思はれた。私共は何時も、九州の片端に小さく入れられてゐる此の島の地圖を見せられてゐるので、つい斯う云ふ間違つた考へを起してゐたのである。これと同じ樣なことは、曾て布哇の島へ行つて其の大きなのに驚き、米國に渡つて再び其の廣いのに魂消たのも、畢竟何れも日本や歐洲と同じ一ペーヂの地圖に收められてゐるのに見馴らされてゐた爲めに外ならない。
 今一つは沖繩は珊瑚礁だと教へられてゐたので、水面からやつと浮き上つてゐる位の島かと思つたら、島の北の方には可成高い山が列なつて居り、中程から南は大分平であるが、そこさへ丘陵が高く低く參差してゐることであつた。朝の食事を濟まして急いで荷物を片付け甲板に出て、次第に近づいて來る沖繩の海岸、那覇の港を見入つてゐると、意地惡く時雨がパラ/\と降つて來る。

二 那覇へ着く

 嘉永六年五月米國のペルリ提督が、始めて琉球を訪れて、那覇の港に船が近づく時、其の美しく青々とした英吉利の景色にも似た海岸に、ところ/″\白い斑點のあるのを見た。始めは家かと思つて居たが、其の後これは石灰岩で作つた墓であることが分つたと、便乘のタイラーなる人の日記から抄出して、ペルリの『日本訪問記』に記してゐる。黒船の騷ぎから八十年以後の私達も、殊には考古學の書生たる私には――やはり海岸に散點する白い墓が、何よりも先に直ぐに眼に付いた。但しペルリの船の人々には、此等の墓と共に今一つ、左手に突出した岩塊(波上宮のある)の傍に、思ひがけなく翻つてゐた英國の「ユニオン・ジヤツク」の旗が目を惹いたが、これは當時那覇に滯在して、耶蘇新教の布教に從事して居つたベツテルハイムと云ふ英人の宿所護國寺に立てられてゐたものである。
 埠頭に船が着くと、私と同船して來た新任の沖繩縣内務部長階川君を出迎への群集が、船室へドツと押し寄せて來る。その序でもあらうか、清野君から紹介せられて居た西山伊織博士や、眞境名安興君などが尋ねて來られたので、沖繩見物の私の身體も、安心…

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