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面とペルソナ
めんとペルソナ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「和辻哲郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日
初出「思想」1935(昭和10)年6月号
入力者門田裕志
校正者米田
公開 / 更新2011-01-12 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 問題にしない時にはわかり切ったことと思われているものが、さて問題にしてみると実にわからなくなる。そういうものが我々の身辺には無数に存している。「顔面」もその一つである。顔面が何であるかを知らない人は目明きには一人もないはずであるが、しかも顔面ほど不思議なものはないのである。
 我々は顔を知らずに他の人とつき合うことができる。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものでない。絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。もちろん顔のほかにも肩つきであるとか後ろ姿であるとかあるいは歩きぶりとかというようなものが人の記憶と結びついてはいる。しかし我々はこれらの一切を排除してもなお人を思い浮かべ得るが、ただ顔だけは取りのけることができない。後ろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いているのである。
 このことを端的に示しているのは肖像彫刻、肖像画の類である。芸術家は「人」を表現するのに「顔」だけに切り詰めることができる。我々は四肢胴体が欠けているなどということを全然感じないで、そこにその人全体を見るのである。しかるに顔を切り離したトルソーになると、我々はそこに美しい自然の表現を見いだすのであって、決して「人」の表現を見はしない。もっとも芸術家が初めからこのようなトルソーとして肉体を取り扱うということは、肉体において自然を見る近代の立場であって、もともと「人」の表現をねらっているのではない。それでは、「人」を表現して、しかも破損によってトルソーとなったものはどうであろうか。そこには明白に首や手足が欠けているのである。すなわちそれは「断片」となっているのである。そうしてみると、胴体から引き離した首はそれ自身「人」の表現として立ち得るにかかわらず、首から離した胴体は断片に化するということになる。顔が人の存在にとっていかに中心的地位を持つかはここに露骨に示されている。
 この点をさらに一層突き詰めたのが「面」である。それは首から頭や耳を取り去ってただ顔面だけを残している。どうしてそういうものが作り出されたか。舞台の上で一定の人物を表現するためにである。最初は宗教的な儀式としての所作事にとって必要であった。その所作事が劇に転化するに従って登場する人物は複雑となり面も…

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