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エレオノラ・デュウゼ
エレオノラ・ジューゼ
作品ID49917
著者和辻 哲郎
文字遣い新字新仮名
底本 「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」 講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日
初出「スバル」1911(明治44)年1月
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-06-30 / 2014-09-16
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ロシアの都へ行く旅人は、国境を通る時に旅行券と行李とを厳密に調べられる。作者ヘルマン・バアルも俳優の一行とともに、がらんとした大きな室で自分たちの順番の来るのを待っていた。
 霧、煙、ざわざわとした物音、荒々しい叫び声、息の詰まるような黄いろい塵埃。何とも言いようのない沈んだ心持ちが人々を襲って来る。女優の衣裳箱の調べが済むまでにはずいぶん永い時間が掛かった。バアルは美しい快活な少女を捕えてむだ話をしていたが、その娘は何の気なしにこういう話をした。「昨晩私のそばにいた貴婦人がひとり急に痙攣ちゃって、大騒ぎでしたの。そのかたも喜劇を演りにペテルスブルグへいらっしゃるんですって。デュウゼとかって名前でしたよ。ご存じでいらっしゃいますか。」そういってその娘の指さす方を見ると、うなだれた暗い婦人が、毛皮にくるまって、自分の荷物のそばに立っている。初めてこの時ヘルマン・バアルはエレオノラ・デュウゼの蒼白い、弱々しげな、力なげな姿を見たのである。
 一週間の後にバアルは彼女を舞台の上に見た。いっしょに行ったのはヨゼフ・カインツとかわいらしい女優のロッテ・ウィットであった。この晩の印象はどうしても忘れる事ができないほど強烈である、三人とも夢中になって、熱病やみのように打ち震えた。カインツは馳け回って大声に歓呼しながら帽子を振り、ロッテはもう役者を廃めるといって苦しげに泣いた。劇場を出た時には三人とも歓びのあまり、酔いつぶれた人のように、気の狂った人のように、恥も外聞もなく、よろめいて歩いた。バアルはその夜徹夜して書きたいような心持ちになったが、筆をとってみると一語さえも書くことはできない。デュウゼについて初めて何か書けそうになったのはそれから四週間の後である。それまでは旅行から得る新しい刺激によって、わずかに頭の整理を続けていた。――これは一八九一年、バアルがロシアに遊んだ時の事だ。

 Luigi Rasi のデュウゼ伝によると、デュウゼの血は劇場の内に流れていた。彼女は「劇場の子」である。
 彼女の祖父はヴェネチアで評判の役者だった。そのころは幕がおりてから、役者が幕外へ明晩の芸題の披露に出る習慣であったが、祖父はこの披露をしたあとでしばしば自分の身の上話やおのろけや愚痴などを見物に聞かせた。見物はそれを喜んで聞くほどに彼を愛していたのだそうだ。この祖父を初めとして一族の内には役者になったものが二十六人あるという。彼女の父アレサンドロは役者としては大して成功しなかったが、絵画に対しては猛烈な愛情を持っていた。
 エレオノラの初舞台は一八六一二年、彼女が四歳の時であった。十四になった誕生日には初めてジュリアをつとめたが、そのころは見すぼらしい、弱々しげな、見ていて気の毒になるような小娘であった。人を引きつける力などは少しもない。暇さえあると古い彫刻と対坐していつまでも…

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