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漁師
りょうし
著者
翻訳者松村 みね子
文字遣い新字新仮名
底本 「かなしき女王 ケルト幻想作品集」 ちくま文庫、筑摩書房
2005(平成17)年11月10日
入力者門田裕志
校正者匿名
公開 / 更新2012-07-07 / 2014-09-16
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 シェーン婆さんは青々した草原の向うのほそい流れで馬鈴薯の皮むきに使う板を洗うとやがて自分の小舎に帰って来て泥炭の火の前に腰を下ろした。
 婆さんはもうひどく年をとっていた。それに、真夏の日のいちにち、陽はよく当っていたけれど、山風は肌さむかった。泥炭の火の前で休むのはうれしいことだった。
 婆さんの小舎は山の斜面にあって南に向いていた。北も南も東も西も、ほかの山々の傾斜が上に上にと伸びて風によって造られ風によって凍らせられた青い大きな波の姿に見えた、その波の頭は高い嶺ともなりそばだつ岩とも形を変えていた。小舎のあたりはいつも静かだった。ネイルの峯から落ちて泡だち流れる山川はしゃがれた声を立てどおしにしてほかのすべての音を静まらせていた。ある時どこかの山の峡を石ころが滑りおちてはげ山の斜面を滑りはりえにしだと杜松の乱れた茂みに落ち込んだとしても、また或るとき、一羽の鷲が自分の巣のある山の絶項にほそい線を引いて行く風に向って戦いながら鳴きさけんだとしても、ある時、鷹が谿そこの兎の穴の上で鳴いたとしても、また、狐が啼き田鳥が鳴き、散りぢりになった羊が絶間ない悲しい声を立てたとしても、それらの凡てが静かさの使たちなのであった。
 その一軒の草屋のほかには谿のどこからも青い烟の立つところはなかった。ネイルの峯の向うにかくれている谿には人のすむ村があって五六十人の人たちが住んでいた、しかしその村までは三哩以上あった。シェーン・マクラオドは、この寂しいところにわかアラスデルと呼ばれた息子とただ二人で住んでいた。五十年の灰いろの足跡が子の髪に白いしるしをつけたとしても、彼はまだわかアラスデルと呼ばれていた。父アラスデルが生きてる時、子はわかアラスデルだった。父アラスデルが世を易えてシェーンが悲しみの寡婦となって後も二人のあいだの子アラスデルはやっぱりわかアラスデルであった。
 シェーン婆さんはその日ひどく疲れていた。しかし彼女が午後の陽の下に出たり入ったり泥炭の赤い火の前に腰かけたりして深く考えこんでいたのは、重い物を持ちはこんで疲れた為ではなかった。
 その後一時間も立ってからアラスデルが坂を昇って来て牝牛を牛舎にひき入れたが、婆さんはその音も聞いていなかった、息子の影が彼自身より先きに家のなかに揺らぎ入って床の上に長く映った時にも彼女は気がつかなかった。
「かわいそうなお婆さん」息子はひとりごとを言ってひどく背が高いので首を屈めながらはいって来た。彼は頑丈な強い男で黒いもじゃもじゃの髭を生やし、真黒く逆だつ眉毛の下の目が山国の男の狂わしい眼つきを持ってはいたが、心はやさしい男であった。
「かわいそうなお婆さん、ひどく弱っている。このごろ影がうすくなったようだ。死んだ人のことを考えているのだろう。きっと考えごとをくり返して考えこんで、向うの谷から山を越えて、山の向うの谷…

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