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作家の生活
さっかのせいかつ
作品ID49993
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」 平凡社
1962(昭和37)年11月20日
初出1934(昭和9)年 4月
入力者sogo
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-06-12 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 優れた作品を書く方法の一つとして、一日に一度は是非自分がその日のうちに死ぬと思うこと、とジッドはいったということであるが、一日に一度ではなくとも、三日に一度は私たちでもそのように思う癖がある。殊に子供を持つようになってからはなおさらそれが激しくなった。親としての作家と、作家としての作家と、区別はないようであるけれども、駄作を承認する襟度に一層の自信を持つようになったのは、親としての作家が混合して来た結果である場合によることが多いと思われる。人間が行動するとき、子のあるものと子のないものとの行為や精神には、非常な相違がある。この平凡な確実なことは、子のないときには理解ができても洞察の度合においてはるかに深度が違ってくる。この深度は作家の作品に影響しないはずがない。宇野浩二氏の『子の来歴』に一番打たれた人々も子のない人に多いのは、観賞に際してもあまりに曇りがなかったからに違いない。
 よく作家が寄ると、最後には、子供を不良少年にし、餓えさせてしまっても、まだ純創作をつづけなければならぬかどうかという問題へ落ちていく。ここへ来ると、皆だれでも黙ってしまって問題をそらしてしまうのが習慣であるが、この黙るところに、もっとものっぴきのならぬ難題が横たわっていると見てもよかろう。
 私は創作をするということは、作家の本業だとは思わない。作家の本業というのは、日々の生活に際して、態度を定めていくということだ。この態度から生れて来る創作というものは、その結果からにちがいはないとしても、創作をするという動作は、たしかに本業ではなくて副業である。創作することが副業であるなら、滅びようと滅びまいと、何かそこには覚悟が自ら生じていくにちがいないのである。私は自分の作品が自分の窮極をめざして作っていると思ったことは、かつて一度もまだなかった。私はその場所にいる自分の段階で、出来うるかぎり最善の努力を払えば良いと思っている。次ぎの日には、次ぎの日の段階が必ずなければ、時間というものは何のためのものでもない。
 私は作品を書く場合には、一つ進歩した作品を書けば、必ず一つは前へ戻って退歩した作品を書いてみる習慣をとっている。そうでなければ次ぎの進歩が分りかねるからであるが、昨年の夏、総持寺の管長の秋野孝道氏の禅の講話というのをふと見ていると、向上ということには進歩と退歩の二つがあって、進歩することだけでは向上にはならず、退歩を半面でしていなければ真の向上とはいいがたいという所に接し、私は自分の考えのあながち独断でなかったことに喜びを感じたことがあった。このようなことは、禅機に達することだとは思わないが、カルビン派のように、知識で信仰にはいろうとしなければならぬ近代作家の生活においては、孝道氏の考え方は迷いを退けるには何よりの近道ではないかと思う。
 他人のことは私は知らないが自分一人では、…

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