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出世
しゅっせ
作品ID500
著者菊池 寛
文字遣い新字新仮名
底本 「菊池寛 短篇と戯曲」 文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日
入力者真先芳秋
校正者鈴木伸吾
公開 / 更新1999-03-08 / 2014-09-17
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。
 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。
 ずいぶん図書館へも来なかったなと、譲吉は思った。図書館でゆっくりと半日を暮し得るほどの暇もなかった過去一、二年の生活が、今さらのように振りかえられた。それと同時に、そうした繁劇な生活からやっと逃れることができて、暢気に図書館へでも来られるようになった現在の境遇を喜ばずにはおられなかった。
 もう一、二年も来なかったかも知れない。いや職業を得てからは、一度も来なかったかも知れないと、彼は思った。兎の耳のように、ひっそいだように突っ立っている白い建物、安定を保っているようで、そのくせ今にも落ちかかりそうに思われるあの白煉瓦の建物にも、長い間足踏みもしないなと思った。
 図書館のことを考え出すと、彼はその中で過したいろいろな時代の自分の姿が、ひっきりなしに頭の中に浮んできた。彼が、初めて東京へ出てきてから、六、七年間の、暗いみじめな学生生活のどの時代のことを考えても、あの図書館の中で暮した半日なり一日なりの有様が、はっきりと頭のうちに、浮んでこないことはない。
 彼が田舎の中学を出て、初めて東京へ来た時、最初に入った公共の建物は、やっぱりあの図書館であった。本好きの彼にとっては、場所にも人にも、何の馴染みもない東京の中では、図書館がいちばん勝手が分かるようであった。
 田舎の中学生にありがちな、東京崇拝に原因しているいろいろな幻影が、東京における実際の建物、文物、風景、人物に接して、ことごとく崩れていってしまった中でも、図書館に対する満足だけは、いつまでも残っていた。田舎の設備の不十分な蔵書の少ない図書館だけしか知らなかった譲吉の目には、あの図書館がどんなに広大に完成されて見えただろう。その頃の彼には、東京におけるいろいろな設備の中では、図書館のありがたさだけがいちばん身に染みて感ぜられた。
 その時以来、どんなにあの図書館の世話になったことだろう。最初入学した専門学校を退学されて、行きどころもなくぶらぶらと半年ばかりの月日を過さなければならなかった時には、どんなにあの建物のありがたさが分かっただろう。
 高等学校へ入ってからも、幾度通ったかもわからない。まだ、そればかりではない、つい二年前、大学を出てから職業にありつくまでの半年間を、彼はやっぱり図書館で暮していたのだ。その時代の図書館通いは、彼にとってはいちばんみじめなことであった。
 大学を出ても、まだ他人の家の厄介になっていて、何らの職業も、見つからないのに、彼の故郷からは、もう早くから、金を送るようにいってきていた。大学を出さえすれば、すぐにも金が取れるように彼の父や母は思っていた。またそう思わずには、おら…

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