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料理芝居
りょうりしばい
作品ID50007
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人の美食手帖」 グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日
初出「独歩」1953(昭和28)年
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-01-14 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 良寛は「好まぬものが三つある」とて、歌詠みの歌と書家の書と料理屋の料理とを挙げている。まったくその通りであって、その通りその通りと、なんべんでも声を大にしたい。料理人の料理や、書家の書や、画家の絵というものに、大したもののないことは、われわれの日ごろ切実に感じているところである。
 しからばこれはなにがためであろうか。
 良寛のいうのは、料理人の料理とか書家の書というようなものが、いずれもヨソユキの虚飾そのものであって、真実がないからいかんといっているに違いない。つまり、作りものはいけないということだ。
 だが、わたしの思うには、家庭料理をそのまま料理屋の料理にすることができるか、といえば、それはできない、客は来ないからだ。明らかに家庭料理と料理屋の料理とにはなんとも仕方のない区別がある。
 その区別はなにか。家庭料理は、いわば本当の料理の真心であって、料理屋の料理はこれを美化し、形式化したもので虚飾で騙しているからだ。譬えていうならば、家庭料理は料理というものにおける真実の人生であり、料理屋の料理は見かけだけの芝居だということである。
 これは芝居であるばかりでなく、程度の低い社会を歩むには芝居でなければならないのである。しかるに料理屋の料理を一般にいけないというのは、この芝居が多くの場合デモ芝居だからである。この芝居を演ずる料理人が大根役者であって、名優でないからである。今日、何々フランス料理、茶料理、懐石などを看板にして誇張するものは、現実に非難されもするが喜ばれているものもある。
 料理屋の料理が家庭料理であってはいけないといったが、それは客が承知しないからだ。これはあたかも実際生活における行為と、芝居において演ずる所作とが同じであってはならないのとまったく軌を一にする。
 試みに、夫婦喧嘩の芝居を舞台にかける場合を考えてみるとよい。もしある役者が、実際の人生に行われる掴み合いの夫婦喧嘩を見ていて、それを、その通り舞台上で演じたとするならば、怒号している言葉が、かえって冗談でもいっているように聞こえてきて、悲劇である場面が滑稽に見えるであろう。そこで舞台上においては、真実よりもある場合には誇張も必要であり、また省略することも必要となる。舞台の上を走るのに、われわれが実際に地上を走ると同じようにランニングを行ったのでは、走る感じが出ない。
 それと同じ心で、料理屋の料理は、家庭料理を美化し、定型化して、舞台にかけるところの、料理における芝居なのである。ただし、これが名優の演技にならねばいかんのだ。われわれが料理屋の料理をいかんというのは、その料理人が名優でないからである。
 これを書についていってみるならば、書は日常の用に立てる手紙とか日記とか、ひとに書のうまさを見せるのが目的で書いたものでないのが本当の書である。書における実人生なのである。だから書…

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