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料理と食器
りょうりとしょっき
作品ID50008
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人の美食手帖」 グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日
初出「星岡」1931(昭和6)年
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-01-23 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 近来、食べ物のことがいろいろの方面から注意され、食べ物に関する論議がさかんになってきた。殊に栄養学というような方面から、食べ物の配合や量のことをやかましくいうことが流行った。けれども、子供や病人ならともかく、自分の意志で、自分の好きなものを食うことのできる一般人にとっては、そういう論議はいくらやっても、なんの役にもたたない。
 だから栄養料理という言葉が、まずい料理の代名詞のように使われたのも、むしろ当然である。わたしどもの目からみると、栄養料理というものは、料理にもなにもなっていない。
 人間の食べ物は、馬や牛の食物とはちがう。人間は食べ物を料理して食うからである。料理とはいうまでもなく、物をうまく食うための仕事である。だが、わたしはなにもここまで改まって料理の講釈をしようとは思わない。ただ一ついっておきたいことは、ともかく、そういうようなことから医者とか料理の専門家といういろいろな物識りが、料理についてさかんに論議してはいるが、その一人として料理と食器についてはっきりした見解を述べているものがいないということだ。
 いうまでもなく、食器なくして料理は成立しない。太古は食べ物を柏の葉に載せて食ったということであるが、すでに柏の葉に載せたことが食器の必要を如実に物語っている。早い話がカレーライスという料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとするものはあるまい。それはなぜであるか、いうまでもなく、新聞紙の上に載せられたカレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、嫌らしい連想などが浮かぶからである。カレーライスそのものだけなら、これをきれいな皿に盛ろうと、新聞紙の上に載せようとも変わらないはずである。それにも拘らず、美しい皿に盛ったカレーライスは、これを喜んで食べ、新聞紙に載せられたカレーライスは見るだに悪寒を覚えて眉をひそめるのは、料理において食器がいかに重要な役目をするかを物語ってあまりあるといえるであろう。
 しかして、こういう感覚は一応は誰でも持っているのだが、美食家とか食通とかいうものになればなるほど、それが鋭くなる。ほんとうに物の味が分ってくればくるほど料理にやかましくなり、料理にやかましくなればなるほど、料理を盛るについてもやかましくなる。これはまた当然である。
 しかるに、現代多くの専門家が料理を云々していながら、その食器について顧みるところがないのは、彼らが料理について見識がないか、ほんとうに料理というものが分っていないか、そのいずれかであろう。
 以上のことが分ると、それに従って次々にいろいろなことが分ってくる。料理をするものの立場からいえば、自分の料理はこういう食器に盛りたいとか、こういう食器を使う場合には、料理をこういうふうにせねばならぬとか、いわば、器を含めて全体としての料理を考えるから見識が広く高くなってくる。
 また…

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