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道教に就いて
どうきょうについて
作品ID50022
著者幸田 露伴
文字遣い旧字旧仮名
底本 「露伴全集 第十八卷」 岩波書店
1949(昭和24)年10月10日
初出「岩波講座 哲学」岩波書店、1933(昭和8)年5月
入力者しだひろし
校正者大沢たかお
公開 / 更新2011-03-12 / 2014-09-16
長さの目安約 56 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 道教は支那に於て儒教と佛教と共に鼎立の勢を爲してゐる一大教系であり、其分派も少からず、又其教義も少しづゝの異を有して居り、草率に其の如何なるものであるかを説き、且つ之を評論することは、もとより不可能の事に屬する。儒教は歴史的にも教義的にも、むしろ平明なものであり、且又世間教に屬するもので、假令其の淵源たる時代即ち殷周の頃には數[#挿絵]上帝を稱し、神鬼に事ふることを重んじたことを認めしむるとは云へ、他の所謂宗教なるものの、超世間的世界を有し、超人的教權者の存在を高調して、そしてそれに因依して教威を立てゝ世に臨むのとは大に異なつてゐる。そこで支那を掩葢するところの宗教らしい宗教は、佛教と道教とで、其他には清眞教等の微勢力のものが存するのみである。道教は支那に起り、支那に發達し、僅に朝鮮日本に多少の影響を貽つたに過ぎないで今に至り、しかも其教の精神からして世界に衝動を與へたといふほどの事も無くて濟んでゐるから、これに注意するものもおのづから少くて、今日の世界の智識の倉庫たる觀ある大英百科事彙を開いてみても、タオイズムの條の記事の貧弱さは人をして西人の東方に關する智識はかゝるものかと驚かしむるほどである。しかし道教の勢力は支那に於て決して輕視すべきものでは無くて、其人民の間に於ける一般道徳・信仰・情操等の或部分を爲してゐるものであることは、其歴史、其文學、其美術等に徴して分明なことである。支那士女の實状を反映するところの小説戲曲の類を試みに瞥見したら、何人も隨處に道教の色彩と香氣とが現はれ漾うてゐることを認めるだらう。あらず、道教の色彩香氣の無いものを見出すことが却て難事であることを認めるであらう。又支那の高等文學たる、士君子を反映してゐる詩の世界に於ても、例へば最も輝いたる唐の時代に於て杜甫に儒教精神を見出すに比して、李白に道教香氣を見出すが如く、餘りに古い時代を除いては、何時の代の詩にも道教香氣を見出すであらう。道教は實に支那に於て根も深く枝も繁つてゐるものである。
 しかし道教の源委流傳の状を記したものなどは甚だ乏しい。これは支那の文權を握つてゐる士人連が、昔から宗教には餘り取合はなくて、歴代の歴史にも佛教に關することなど餘り記載せぬ習慣になつてゐる、それと同樣な譯柄からであらう。で、隨つて我邦でも道教に關しては大略的の智識を有してゐる人も多くは無いやうに見えて、從來道教に就いての評論などは餘り耳にせぬ。一つは我邦に取つて道教の影響が稀薄であつた故でもあらう。
 扨道教に就いて聊か語らう。しかし先づことわつて置くが、自分は道教の信仰者でも禮讃者でも同情者でも何でもない、淡然たる心をもつて道教に對してゐる。たとへば路上に於て一塊の石を眼にして、何の氣もなく、望むところもなく、これに對してゐる、それと同じ態度であるといふことである。
 道教は何樣して興つたらう…

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