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猫八
ねこはち
作品ID50133
著者岩野 泡鳴
文字遣い新字新仮名
底本 「日本文学全集13 岩野泡鳴集」 集英社
1969(昭和44)年4月12日
初出「大阪毎日新聞」1918(大正7)年9月~10月
入力者岡本ゆみ子
校正者荒木恵一
公開 / 更新2015-06-17 / 2015-05-09
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「おい、大将」と呼びかけられて、猫八は今まで熱心に読み耽ってた講談倶楽部から目をその方に転じた。その声ですぐその人だとは分ってたので、心易い気になって、
「いよう、先生!」わざと惚けた顔つきをしてみせながら、「よくこの電車でお目にかかるじゃアございませんか――さては、何かいい巣でもこッちの方にできました、な?」
「なアに、巣鴨の巣、さ!」
「………」それには彼もさっそく一本まいった。が、この時あたりの乗客どもがすべて聴き耳を立ててきたので、彼は今手が明いて引き上げてきた高座のうえの気分をまた自分の心に引きだしていた。そして乗客どもが皆自分のお客のように見えてきたので、ここはやッぱり何とかやり返してやらねばならぬような気になった。「そうでげしょう、な」と、にわかにもっともらしい顔になって、ちょうどこの時顛狂病院の前を自分らの電車が通ってるのをじろりと見て取って材料に入れた、
「巣鴨なんかにゃア、どうせ気違いか猫八のような化け物しか住んでおりませんから、な」
「は、は、はア」と笑った物があるので、彼はこんな場所ででもいつもの手応えを得るには得たが、場所柄を思ってそのうえの軽口をさし控えようとすると、何だかこの口が承知してくれないようにも思えた。
「まア、おとなしくしていなよ」ひそかに自分で自分を制しながら、相手の顔を見ていた。この人は高見といって、一二度ある催しに自分を招いてくれた人で、人のよさそうな黙笑をその少し酔いの出た、そして睡そうなあの顔に続けている。「おい、小奈良の小大仏」と喉まで出たが、朋輩の者でもない人にと思って、ぐッと呑みこんでしまった。それから、さし障りのないと思えた言葉がべらべらと飛びだした。「もう、一杯すみました、な――この不景気に先生はなかなか景気がよさそうじゃアございませんか? 少しあやかりてい、な、――えい? わたくしなぞはこれから自宅へ帰って、やッと――その、な――熱いのにありつけるかと思ってますのでげすが、な、かかアがその用意をしてあるかどうかも分りません」
「は、は、はア!」筋向うに座を占めてこちらを見詰めていた男がまた笑った。
 人の笑いさえ聞えれば、自分には気持ちよく響くのであるが、自分自身には少しもおもしろくないのが不思議であった。芸人としての理窟を言えば、それはたくさんあることはある。人を笑わせるには自分から笑っていては利き目がないということもその一つだ。けれども、自分は人の好む酒をもさし控えて、この商売に使う自分の声を保護しているくせに、人に向ってはやッぱり酒を呑むかのごとく見せかけなければならぬ。こんな苦しいことが他の仕事にもあろうか? 人は芸人なんてしゃアしゃアして、世に苦労もないように思ってるが、その本人にもなってみるがいい。人の知らない苦労をこてこてとしている。自分なんかはまるで苦労の固まりでもってできた…

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