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たんざくの客
たんざくのきゃく
作品ID50151
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
入力者竹内美佐子
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-11-17 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大正のいつごろであつたか、大森新井宿で私はサラリーマンの家の平和な生活をしてゐた時分、或る日奇妙なおじいさんが訪ねて来た。どんな風に奇妙なのか、ただ取次に出た少女が奇妙なおじいさんと言つた。おじいさんは名も言はずただ一枚の短冊を出して、これを奥さんにお目にかけて下さい、用向きもそこに書いてありますと言つたと彼女が取り次いだ。その短冊にはよく枯れた字で書いてあつた「たづね寄る木の下蔭やほととぎす鳴く一声をきかまほしさに」。私がそのほととぎすのわけで、新井宿の家は椎やけやきの大木がずつと垣根をとりまいてゐたから、つまり、木の下蔭であつた。
 座敷に通すとおじいさんはていねいに名のつた。自分は師匠はございませんが、わかい時から和歌の修行をして歩いてをります何の舎なにがしといふ者で、奥さんが和歌をなさるといふことを風の便りに伺ひまして、おなつかしさのあまり、ぶしつけをかへりみず伺つた次第で、お目にかかれてありがとうございますと言つてお辞儀をした。彼は年ごろ六十かもう少し上かも知れなかつた、古い着物ながら身ぎれいにして大きな合切袋をそばに置いて坐つた。煙草もはな紙も、手拭も矢立も鉛筆も、うすい紙の短冊を三四枚かさねて三つ折にたたんだものや、古い歌の本、そのほか一さい合切入れてあるらしかつた。話しながら時々その袋の中から何かしら取り出してゐた。むかし武者修行が諸国を旅して廻り、ある土地の道場に試合を申入れてそのあと、そこの家に泊つたりしてゐたことは古い物語で読んでゐるが、おじいさんは試合に来たのではなく、ただありあまる歌道の智識をその道の若い人に聞かせたい気持らしく、すこしも高ぶることなく愉快に話してくれた。しりとり川柳といふやうなものがこの頃ラジオのとんち教室で毎週放送されてゐるが、おじいさんはしりとり歌がとても上手で、しりとり歌を三十一首くらゐ並べて、その一首毎のはじめの一字を横に並べて読むと、これがまた三十一字のみごとな歌になつたりして、じつに驚嘆すべき腕前なので私はすつかりかぶとをぬいでしまつた。
 一首のおしまひにんの字がついたらお困りになりませう? と訊いたら、いや、和歌にはんの字は用ひませんですな、んの字の代りにむの字を用ひますから少しも困りませんと言つた。なるほど、私だつて作歌の時にんでなく、むを書く位の事はよく知つてゐたのに、なぜそんな間抜けな事をきいたものか、うつかりものがすつかり恐縮した。その時はお茶とお菓子ぐらゐで別れたが、その後おじいさんは時々現はれて、よく話して行つた。さういふ時なにか食事代りの温かい物を出し、おじいさんに役にたちさうな小さな贈りものをした。お小づかひを上げたら一ばん役に立つのだがと思つても、それを上げてよいものかどうか分らないから、お金は上げないで、何かおじいさんの喜んで食べてくれさうな物を出した。池上のお山の向うに婆さん…

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