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六号室
ろくごうしつ
作品ID50220
著者チェーホフ アントン
翻訳者瀬沼 夏葉
文字遣い新字新仮名
底本 「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」 筑摩書房
1965(昭和40)年12月10日
初出「文藝界」1906(明治39)年4月
入力者阿部哲也
校正者米田
公開 / 更新2011-03-02 / 2014-09-21
長さの目安約 95 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

(一)

 町立病院の庭の内、牛蒡、蕁草、野麻などの簇り茂ってる辺に、小やかなる別室の一棟がある。屋根のブリキ板は錆びて、烟突は半破れ、玄関の階段は紛堊が剥がれて、朽ちて、雑草さえのびのびと。正面は本院に向い、後方は茫広とした野良に臨んで、釘を立てた鼠色の塀が取繞されている。この尖端を上に向けている釘と、塀、さてはまたこの別室、こは露西亜において、ただ病院と、監獄とにのみ見る、儚き、哀な、寂しい建物。
 蕁草に掩われたる細道を行けば直ぐ別室の入口の戸で、戸を開けば玄関である。壁際や、暖炉の周辺には病院のさまざまの雑具、古寐台、汚れた病院服、ぼろぼろの股引下、青い縞の洗浚しのシャツ、破れた古靴と云ったような物が、ごたくさと、山のように積み重ねられて、悪臭を放っている。
 この積上げられたる雑具の上に、いつでも烟管を噛えて寐辷っているのは、年を取った兵隊上りの、色の褪めた徽章の附いてる軍服を始終着ているニキタと云う小使。眼に掩い被さってる眉は山羊のようで、赤い鼻の仏頂面、背は高くはないが瘠せて節塊立って、どこにかこう一癖ありそうな男。彼は極めて頑で、何よりも秩序と云うことを大切に思っていて、自分の職務を遣り終せるには、何でもその鉄拳を以て、相手の顔だろうが、頭だろうが、胸だろうが、手当放題に殴打らなければならぬものと信じている、所謂思慮の廻わらぬ人間。
 玄関の先はこの別室全体を占めている広い間、これが六号室である。浅黄色のペンキ塗の壁は汚れて、天井は燻っている。冬に暖炉が烟って炭気に罩められたものと見える。窓は内側から見悪く鉄格子を嵌められ、床は白ちゃけて、そそくれ立っている。漬けた玉菜や、ランプの燻や、南京虫や、アンモニヤの臭が混じて、入った初めの一分時は、動物園にでも行ったかのような感覚を惹起すので。
 室内には螺旋で床に止められた寐台が数脚。その上には青い病院服を着て、昔風に頭巾を被っている患者等が坐ったり、寐たりして、これは皆瘋癲患者なのである。患者の数は五人、その中にて一人だけは身分のある者であるが他は皆卑しい身分の者ばかり。戸口から第一の者は、瘠せて脊の高い、栗色に光る鬚の、眼を始終泣腫らしている発狂の中風患者、頭を支えてじっと坐って、一つ所を瞶めながら、昼夜も別かず泣き悲んで、頭を振り太息を洩し、時には苦笑をしたりして。周辺の話には稀に立入るのみで、質問をされたら决して返答をしたことの無い、食う物も、飲む物も、与えらるるままに、時々苦しそうな咳をする。その頬の紅色や、瘠方で察するに彼にはもう肺病の初期が萌ざしているのであろう。
 それに続いては小体な、元気な、頤鬚の尖った、髪の黒いネグル人のように縮れた、すこしも落着かぬ老人。彼は昼には室内を窓から窓に往来し、或はトルコ風に寐台に趺を坐いて、山雀のように止め度もなく囀り、小声で歌い、ヒヒヒと頓興に…

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