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詩に関する話
しにかんするはなし
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
初出「白痴群 第六号」1930(昭和5)年4月1日
入力者村松洋一
校正者小林繁雄
公開 / 更新2009-06-14 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

   一、序

 近頃芸術は世界全般に亙つて衰へ、その帰趨を知らない。種々なる主義傾向によつて賑はつてゐるとは云へ、各人は衰弱し、独りゐては考へ込み、人と遇つてはカラ笑ひしてゐる。私も亦同様である。然るに今日私は過去五年間の暗中模索、傷ましき躁宴の後に、聊か芸術の泉なるものが依て以て存する所以に想ひ到つた。――どうぞ愚人の囈言も偶にはよいとして、私の語る所を聴いて貰ひたい。

 ありとある微分値の間を駆け巡り、今日積分値にまで漸く辿りついてみると、案外に道は近きにあるに驚かざるを得ない。
 要するに芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興或ひは、感謝となるもので、而してそれが旺盛なれば遂に表現を作すといふ順序のものである。
 然るに、事物を対抗的にではなく感受し得るためにはそれ相当の条件がある。(但し私の云ふその条件とは、金銭や環境、又は個性なぞと呼ばれてゐるものの裡にあるのではない。)
 扨、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用ゐられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云ふ意味は、誠実であるといふことをも含むでゐる。
 顧ふに、十九世紀前半までの芸術は、先づ自然をだけ克服したのだと観れば観られる。その後交通は急劇に頻繁となり、人は竟に自然をだけ克服する力では、眩ぐるしき対人圏に於て誠実たり得ず、やがては我を忘れるに到つたのである。我を忘れた時にも猶存するものは、作用に非ずして対象のみであり、斯かる時近時の芸術が方法的となり、恰かも結構な骨に紙の肉を張つたやうであることは、首肯出来る所であらう。
 誠実たること――即ち愚痴つぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であらう。何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。
 頻繁なる対人圏にあつて、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗ふ」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけである。
 然し今、頻繁なる対人圏と同様に、人を弱くするものがある。それはかの落付のない勉強である。――同胞諸子が堅忍なられんことを!
(とまれ一切物中に於ける、各自我のスペクトルの乱雑が、近時世界の芸術に萎凋を来してゐる。)

 茲に於て私は少々傍道をしなければならないのであるが、――由来我が文学は言葉を読むと同時に触りを感取するが重要である。
 日本武尊が古事記中に叫ばれた歌は、明かに一呼吸中に歌はれたものであつて、一呼吸中のものとしては実に絶品であるが、デヴヱロッピングではない。斯かる場合にこそ触りは甚だ重要な役割をするのであつて、惟ふにこれは歌といふよりも散文の澄んだる箇所の膨脹したもので…

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