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良子
よしこ
作品ID50237
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者なか
公開 / 更新2011-01-11 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「お嬢ちやん大きくなつたらお嫁に行くんでせう?……」良子の家に毎日やつてくる真つ赤な顔や手の魚屋の小僧は、いまお祖母ちやんが鉢を出しに奥へ行つたと思ふとそんなことを云つた。
「いやーよ。」さう云ふなり良子は、走つて台所と物置との間の、狭い通路に這入つてしまつた。
 彼女は今年七ツになる、先達小学校に入学したばかりだつた。
「お魚屋さんのばーかやい。」
「お嬢ちやんのばーかやい。」
 彼女はその小僧を、悪い人間なんだらうと思つた。……でも、彼女は、今にこにこして、下唇に涎をいつぱい溜めて、走つたのでハアハア云つてゐた。
「ばかァ。」さう云つて今度は頭をのぞけた。すると小僧も大急ぎで、その方に頭を突きだして笑つた。
 彼女が屋根と屋根との間から落ちる、やつと自分の背幅程の日向に、自分のおかつぱの影を見付けた時に、小僧とお祖母さんの話声が聞え出してゐた。
 もう一度彼女は頭をのぞけて、「ばかァ」と云つたが、魚屋はお祖母さんの方を向いたツきりだつた。
「ばかァ!」――彼女は飛び出して来た。
「あじの方はおよしなりますか、ごついでにいかがです、およしなりますか?」
 良子は、さう云ひながらあじとお祖母さんとをかはるがはるに見てゐる小僧の顔を、ヂツとみてゐた。彼女には、その真面目臭つた顔の小僧と、先刻「お嫁さん」と云つた時の小僧とが、どうしておんなしなんだらう? と思つてゐた。
 お祖母さんが台所に這入ると、小僧は天秤棒を担ぎあげて、「ありがと、存じました」といふや、赤い手を振りながら、さつき良子が隠れた、あの通路の方へ行つた。見えなくならうとする前に彼は一寸振向いて、「お嬢さんさよなら」と、高い声で巫戯けて云つた。
 良子はそれらをズツと見てゐた。
 小僧が見えなくなると、彼女は右足の下駄の先でクルリとからだを廻して、それから唱歌を歌ひ出した。空の方を眺めながら、手や指も動かしてゐた。
「良子ちやん、おさらひをするんだよ。」
 家の裡からお祖母さんのダミ声が聞えて来た。
「はーい。」
 彼女が部屋に行つて見ると、お祖母さんは彼女の方を見向きもしないで、壁の傍で良子の袴を畳んでゐた。
 其処が、良子とお祖母さんとの部屋である。夜になると、良子とお祖母さんとはその部屋で一緒の床に這入る。
 小さい机が、庭に面した側の柱の傍に置いてある。空が急に曇つて来てゐる。
 彼女の真正面あたりに、土塀に近く植つてゐる古い大きい柿の樹の根元には、蟻達が忙しさうに働いてゐる。彼女はそれを、ヂツとみてゐる。
「ハータ、ターコ、コーマ、ハート……」そこまで読むと彼女は、ほんの今まで見てゐた、群から一寸外れて歩いてゐた蟻は、もうどのへんに行つただらうと思ひながら柿の樹の根元を見る。が、もう、どれがどの蟻だか分らなくなつてゐる。
「コートリ、タマゴ、ハーカマ、ハオリ……」
「アーメ、カサ、カーラ…

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