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医者と赤ン坊
いしゃとあかンぼう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者shiro
公開 / 更新2017-09-13 / 2017-08-25
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 午前からの来診患者が一先づ絶えたので、先刻から庭木に鋏を入れてゐた医者が、今居間に帰つて来た所だ。
 窮屈さうに、紫檀の卓に頬肘を突いて、今まで其処に自分のゐた庭に、障子の中硝子を透して集中しない視線を遣つてゐた。
 卓の上には西日が流れて、淡く塵垢さへ見られた。彼の肘の前にある灰皿の中の、喫ひ終つたばかりの喫殻から登る紫色の煙と、他の古い喫殻にそれが燃え移つて出る茶褐色の毒々しい煙とが、やゝもすれば彼の顔に打つ衝かつたが、そんなことには元来頓着ない彼であつた。折々堪らないやうに双眼の切れ目から輻射状の皺を発したが、それでも更にそれらの喫殻に手を下さうとしないのは、明かに彼自身にも得体の知れぬ悶えが、彼の中を横行してゐたからである。
 家敷の二方に並ぶ病室からは、患者や附添人等の呑気な饒舌が、時には高く、その余はゴトゴトと聞えて来た。
 入院患者の中で、若い者は看護婦のゐる室に出掛けて、彼女等を揶揄つた。疳高い甘え声が、真昼の暑熱が漸く鈍い渾然さをみせた夕刻の空気の中を、矢のやうに走つた。そしてそれは彼の耳には格別によく響き入つた。
 又、台所の方からは三十人に近い此の一家の夕飯仕度の煩雑な音が、これは人の胸を包むやうに彼の所に漂ひ寄つた。「エヽくそツ!……」と思つた。だがその直ぐの瞬間に、「あれは命をつなぐものだ」といふ考へが彼の頭を占領した。
 湯殿でまだ沸き切らぬ湯をチヤブチヤブさせて遊んでゐる四人の小さな子供等こそは、実は一番喧しかつたのだが、長男に就いての一件の起こつてる時なので、他の四人の子供は何だか可愛い気がして、何時ものやうにとても「やめろ!」と怒鳴ることは出来なかつた。
「病室の奴等は……」と思ふとその饒舌の声々に腹が立つたが、その入院してる一人々々の顔を憶ひ出すと、何にも云へぬ気がした。
「看護婦の奴等め!……だがまたふてくされるのか……」――そこで彼は嘆息した。
 腕はその儘、頭だけを屈めてサラリと禿げかゝりのそれを撫でた。そして頭を屈めた際につむつた眼を、云ふことの出来ない表情で開くと、閉つた口をムニヤムニヤとさせた。開かれたばかりの下瞼は、老七面鳥を想はせた。
「困つたものだ……」
 再び今の様に頭を撫でるから繰返して、不図頭を上げた時さう思つた。その次に「何が困つたことだ?……」と自らに反問した。その結果は兎も角も長男の一件とすることになつた。
「彼奴は……」と先づ突つ附いてみた。だがその次が出て来ないので、今しがた飛び込んで来て彼の頭の上を飛び廻り飛び交つてゐる二匹の蠅が気になり始めた。そこで蠅打を取つてピシヤリと一匹を打つた。首尾よく一匹はそこに仰向きに転んだ。「かう行けば好い――」
 彼は一匹だけだと思つてゐたのだ。所がもう一匹の奴がゐることを知つた時一寸、大変な災難が来たやうな気持になつた。
 慌てるやうに蠅打を手放すと…

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