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小詩論
しょうしろん
副題小林秀雄に
こばやしひでおに
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者shiro
公開 / 更新2018-04-11 / 2018-04-25
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 此処に家がある。人が若し此の家を見て何等かの驚きをなしたとして、そこで此の家の出来具合を描写するとなら、その描写が如何に微細洩さずに行はれてをれ、それは読む人を退屈させるに違ひない。――人が驚けば、その驚きはひきつゞき何かを想はす筈だが、そして描写の労を採らせるに然るべき動機はそのひきつゞいた想ひであるべきなのだが。(断るが、茲でいふ想ひとは思惟的なのでもイメッヂでのでも宜しい。)

 生きることは老の皺を呼ぶことになると同一の理で想ふことは想ふことゝしての皺を作す。
 想ふことを想ふことは出来ないが想つたので出来た皺に就いては想ふことが出来る。
 私は詩はこの皺に因るものと思つてゐる。
 古来写実的筆致を用ひた詩人の、その骨折に比して効果少なかつた理由は、想ふことを想はうとする風があつたからだと私は言ふ。或は、真底想はなかつたから、判然皺が現れなかつたのだ。
 然るに此の皺は決して意識的に招かるべきものではない。よりよく生きようといふ心懸けだけが我等人間の願ひとして容れられる。

 ラムボオは或一物に驚ろくとすると、彼は急ぎ過ぎたので、そして知能が十分だつたので、その驚きをソフィズム流に片附けた。即ちラムボオの皺はソフィズム色を多いか少いかしてゐたのだ。けれども何れにしろ、皺の出来るより前に彼は筆を取つてはゐない。

 実際、人は驚けばその驚きが何であるかと知りたいのは当然過ぎる程のことで、だからといつてその驚きはその時努力して何だと分る筈のものではない。けれども努力して凡そ何だとくらゐ分らないものでもない。それで大抵の人がその凡そ何かを探すのだ。そしてその凡そで以て何やかや書き出すやうになる。その凡そだ、詩を退屈にするのは。その凡そを持たないためには一心不乱に生きるばかりの人である必要がある。――ヴ※[#小書き片仮名ヱ、107-9]ルレエヌには自分のことは何にも分らなかつた。彼には生きることだけが、即ち見ることだけがあつた。それが皺となつたその皺は彼の詩の通りに無理のないものだつた。――人類が驚きにひきつゞいた想ひを書かずに驚きの対象を記録した方が手つとり早いと考へたことには微笑すべき道理がある。けれども詩人の仕事を困難にした一番主なものはこの道理だ。
 ラムボオはこの道理の犠牲の最後の人として、金色の落日の光りを見せて死んで行つたのだ!

 今言つた道理が、世界の中にどんな具合に駐屯してゐるかといふと、元来思想なるものは物を見て驚き、その驚きが自然に齎らした想ひの統整されたものである筈なのだが、さうして出来た思想は形而上的な言葉にしかならないので、人間といふ社交動物はその形而上的な言葉の内容が、品性の上に現じた場合の言葉にまで置換へたので、そして社交動物らしいそのことが言葉を個人主義者であらしめなくしたので、世界はアナクロニズムに溢つたのだ。それで例…

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